2021年8月29日日曜日

『アメリカ彦蔵』を読む

                      
 会社を辞めたあと、いわき地域の新聞の歴史を調べる過程で、日本の新聞の歴史に目を通した。わが国最初の民間新聞は、米国に帰化した日本人、ジョセフ・ヒコ(日本名浜田彦蔵)が元治元(1864)年に発行した手書きの「新聞誌」だった。

羽島知之編著『新聞の歴史――写真・絵画集成1(新聞の誕生)』(日本図書センター、1997年)ほかで知った。

翌年5月には「海外新聞」と改題、木版印刷(一部は手書き)に切り替えて、慶応2(1866)年まで26回発行した。ヒコが横浜入港船から外国新聞を入手し、最新の海外ニュースを和訳して、岸田吟香・本間潜蔵(清雄)がわかりやすい日本語に練り直した。

横浜開港資料館の館報「開港のひろば」などによると、江戸時代末、播磨の少年彦太郎(のちの彦蔵)の乗った船が遭難・漂流し、米国船に救助される。

彦太郎は米国で教育を受け、洗礼を受けて「ジョセフ」の名を与えられる。キリシタン禁制の母国へは、そのままでは戻れない。帰化して、横浜の開港とともに米国領事館の通訳として帰国する。その後、貿易商に転じて日本語の新聞を発行した。

このヒコを主人公にした小説がある。吉村昭の『アメリカ彦蔵』(新潮文庫)=写真。いつ、だれのダンシャリだったかは覚えていないが、引き取った本の中にあった。第23章でヒコと新聞のかかわりを詳述している。吉村昭は綿密な調査・取材を重ねたことで知られる。史実を作家の想像力が補う。それがさえわたる場面――。

ヒコは13歳で日本を離れたためにちゃんとした日本語の文章にする力がない。正確でわかりやすい文章を書く人間が必要だった。その期待にこたえたのが三河拳母(ころも)藩の儒官を経験した浪人岸田吟香だった。眼病治療を機に宣教師で医師の米国人ヘボンと知り合い、ヘボンの和英辞書(和英語林集成)編集に協力していた。

「吟香は、外国新聞の和訳文をつづることに興味をいだき、力を貸して欲しいという彦蔵の申入れを即座に承諾した」

彦蔵が和訳を読み上げる。吟香と潜蔵の2人が筆で書き留める。互いの文章を照らし合わせて明快な文章に練り上げる。「これを新聞誌としましょう」という吟香の言葉に、彦蔵はいかにも「ニュースペーパー」にふさわしい名称だと納得する。

ただ、米国と違って新聞を購読する意識は日本人の中にはなかった。請われるままに新聞を手渡した。定期購読料を払ってくれたのは2人だけだった。

ヘボンの和英辞書が完成し、上海で印刷するため、ヘボンに従って吟香が渡航する。「筆記者を失った彦蔵は海外新聞の発行を中止した」

ヒコに始まる日本の新聞は短期間に全国に広がり、明治初期には早くもいわきで発行されるようになる。それが官製の「磐前(いわさき)新聞」(明治6年10月創刊)だった。

ちなみに、画家岸田劉生は吟香の四男。吟香はさらに、ヘボン直伝の目薬の製造・販売を手がける。いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の建設工事中に、磐城平城外堀跡から吟香が販売した目薬「精錡水」の荷札が出土している。人気商品だったらしい。

0 件のコメント: