2021年8月21日土曜日

平・田町のブランコ

        
 来年(2022年)、喜寿を迎える知人が友達(高校の同級生)を連れてやって来た。友達はカミサンの友達の妹だ。

 カミサンと知人の友達は平一小・一中を卒業し、同じ高校で学んだ。1歳違いだから、カミサンとは先輩・後輩の間柄ということになる。

 知人の友達はいわき市最大の繁華街、平・田町で育った。今の田町からは想像もできないが、昔の田町にはまだ普通の暮らしを営む家々があった(むろん、今もある)。

 いわき駅を中心にした平市街は、江戸時代には磐城平藩の城下町だった。いわき駅裏の高台に城があった。ふもとは、掘割で武家と町家が区分けされていた。

フェイスブックにアップされたいわき市の「いわきの『今むがし』――平字田町」=写真=によると、明治の世になって掘割が埋め立てられ、常磐線が開通した。石炭景気と平駅(現いわき駅)の開設が経済の活性化と街のにぎわいを生み、大正へと時代が進むなかで田町に花柳界が生まれた。

江戸時代からある本町通り(南側=町家の道路)と並木通り(北側=武家地の道路)の間に、南から「紅小路」「新田町通り」「仲田町通り」ができた。紅小路~新田町通りの間は、元は掘割だったという。その通りをあでやかな芸妓が行き交った。

 そうした街の歴史を背景にして、同じ時代の空気を吸い、同じ風景を見ていた人間が思い出話に花を咲かせる。「それは昭和20年代のことですか」。まだ喜寿には遠い人間が聞く。「いや、30年代前半」。つまりは、高度経済成長時代が始まるか、始まったころのことらしい。

強く印象に残ったのは、田町のど真ん中に遊園地のような空間があったことだ。カミサンたちの記憶によると、場所は紅小路から入ったところで、一区画だけ新田町通りまで空き地になっていた。そこにブランコと滑り台があった。

「田町のブランコ」。とっさにキーワードが浮かんだ。今では考えられないことだが、ブランコと滑り台があるくらい、田町にも子どもたちの歓声が絶えなかった、ということだろう。

現に高台の陰、中世の古い町に生まれ育ったカミサンには、田町育ちの同級生が何人もいた。

ひととおり子どものころの思い出にひたったあとは、切実な現実の話になった。生老病死(しょうろうびょうし)。知人の友達は去年、年下のご主人を亡くしている。新盆だった。

そこから家族葬が多くなった、今年はジャンガラ念仏踊りの鉦(かね)の音を聞かなかった、親しくしている「お姉さん」から、妻は夫に先立たれてもなんとかなるが、夫はそうはいかない、だから「あなた、先に死ぬのよ」と“忠告”された話などをした。

思い出の田町は、コロナ禍の今、閑古鳥が鳴くどころか、いなくなったように寂しい。ま、お迎えがくるまでは精いっぱい生きましょう――最後はすっきりした気分で解散した。

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