信号待ちをしていたら、そばの店の壁に書かれた文字が目に入った=写真。「三二四駆(さん・に・よん・く)、何だろう?」。「ミニ四駆のことか」と合点がゆくまで、少々時間がかかった。
片仮名の「ミニ」が漢数字の「四」に引っ張られて、同じ漢数字の「三二」に見えた。50代、いや60代だったら、一発で「ミニ四駆」を思い浮かべただろうが、70代に入った今は目と目の奥にある機能がゆるくなっている。
こういうときには決まって思い出す詩がある。詩集『村の女は眠れない』で知られる草野比佐男さん(いわき市三和町、1927~2005年)が、昭和61(1986)年の早春、ワープロを駆使して限定5部の詩集『老年詩片』をつくった。1編が4・4・3・3行、計14行のソネット集だ「作品一」に「花眼」という言葉が出てくる。
「老眼を<花眼>というそうな/視力が衰えた老年の眼には/ものみな黄昏の薄明に咲く花のように/おぼろに見えるという意味だろうか」と、草野さんは問いかける。
「あるいは円(まど)かな老境に在る/あけくれの自足がおのずから/見るもののすべてを万朶(ばんだ)の花のように/美しくその眼に映すという意味だろうか」
そのあとの展開がいかにも草野さんらしい。「しかしだれがどう言いつくろおうと/老眼は老眼 なにをするにも/不便であることに変わりはない」「爪一つ切るにも眼鏡の助けを借り/今朝は新聞の<幸い>という字を/いみじくも<辛い>と読みちがえた」
『老年詩片』を出したとき、草野さんは59歳。その年齢をはるかに超えて、「妻」を「毒」と読み違えることもおきるようになった。活字が小さいと、「プ」か「ブ」か、「3」か「8」か、拡大鏡を使って確認しないとわからない。
「ミニ」を「三二」と読み違えたのは、認識力の減衰と花眼が絡み合った結果というべきなのだろう。
耳だって「花耳」、口だって「花口」になってきた。テレビに出てきた焼き物を見て「萩焼かな」といったら、「歯磨き?」と聞き返された。こちらの発音が悪いために、「ハギヤキ」が「ハミガキ」に聞こえたようだ。
先日も、「昨日」というべきところで「去年」といい、「今日」が「今年」になってしまった。頭では「昨日」のこと、「今日」のことと承知しているのに、口をついて出たのが「日」単位ではなく「年」単位の言葉だった。
いちおう新聞記者を生業にしてきたので、読み書きの習慣は今も続いている。現役のころは仕事でコラムを書き、辞めてからは毎日、ネットでブログを更新している。
「1日に1回、締め切りを持つ」。そう決めてブログを書いている自分と、何もしないでテレビを見ているだけの自分を比較すると、慄然とする。読み書きを自分に課さなかったら、たぶんもっともっと認識力が低下していたのではないか。そばにいる人に「あんた、誰?」なんて口にしなくても、思うようになったりして――とは、単に今思いついた冗談だが。
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