企画展が始まったと思ったら、コロナ禍で臨時休館になる。主催する側も、展観する側も不完全燃焼のまま日が過ぎる――この2年間はそんな状態が続いた。
9月末でいわき市の「まん延防止等重点措置」が終わり、10月からはマスク着用や「3密」防止の基本対策に切り替わった。10日までの「リバウンド防止期間」も過ぎた。いわき市内の公共施設にもようやく「平常」の空気が戻りつつある。
いわき市立草野心平記念文学館は夏場が展観のピークだ。7月17日に「中原淳一展――美しく装うことの大切さ」が始まったと思ったら、8月7日から臨時休館に入り、「まん延防止等重点措置」の適用・延長が加わって、結局、9月30日まで休館を余儀なくされた。同展は9月12日までだったので、開催期間のあらかたが休館のまま終わった。
ほぼ2カ月ぶりの再開だ。日曜日(10月10日)、前日に始まったばかりの「新収蔵品展」を見た。中に草野心平研究第一人者の故・深澤忠孝さん(1934~2018年)の研究資料や写真資料がある。
深澤さんが中心の草野心平研究会は「草野心平研究」を継続して出した=写真(チラシから)。チラシには公刊分19冊が載るが、未刊の第20号編集控も展示されていた。
夏井川の支流・江田川が「セドガロ(背戸峨廊)」として知られるようになったのは、心平が旅の雑誌に書いたことが大きい。その経緯を調べたときに、『草野心平全集』や文学館図録の年譜が“壁”になった。史実と一致しない。そのとき、「草野心平研究」誌に助けられた。
「草野心平研究」第5号(2003年11月)で年譜作成委員会が、既成の心平年譜は「基本的に心平の自筆と口述に基づき、若干の資料に当って作成されたものである。間違い、勘違いの類は壮大多数、実証的研究には役立たない部分が多い」と書いた。心平自身もそれを認めていたという。
つまり、心平について調べようとすると、当時の新聞記事や関係者のエッセーなどを基に、事実はこうだった、誤称・誤記がおきたのはこういう理由からだったと、自分で裏を取る作業が必要になる。
全集や文学館の図録年譜には、昭和21年9月、上小川村江田の渓谷「セドガロ」を「背戸峨廊」と命名し、点在する滝や沢に「三連滝」や「猿の廊下」などとそれぞれの名を付ける――とあるが、実際には昭和22(1947)年10月のことだった。
終戦から2年後の同22年10、11月、中国大陸から引き揚げ、生家で暮らしていた心平が、地元の青年会員らと江田川に入渓する。それが“原点”。
それともう一つ。深澤さんは心平の詩の道程について、『草野心平研究序説』では①習作期②自立期③開花期――としている。それを踏まえた心平の生涯については、幼少年期・青年前期のあと、Ⅰ青年期~Ⅱ怒涛期~Ⅲ開花期(1)~Ⅳ開花期(2)~Ⅴ爛熟期~Ⅵ充溢期~Ⅶ玄の時代~Ⅷ大団円、という流れを構想していた。なるほど。
ほかには、深澤さん撮影の川内村・天山祭りや東村山市の自宅での心平の写真などが展示されている。研究者・理解者として心平と深く交流したことがうかがえる貴重な資料といってよい。
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