「俳論家・俳人大須賀乙字展」がいわき市四倉町のひまわり信用金庫四倉支店で開かれている=写真。同支店近くに住む自営業緑川健さんが収集した短冊や掛け軸などが展示されている。11月30日まで。
先日、知人と見に行った。あとで緑川さんの店に寄り、展示作品の解説を受けた。乙字とは?という人が多いという。前に拙ブログで乙字について書いているので、まずそれを抜粋して再掲する。
いわきゆかりの近代文学で欠かせないのが大須賀筠軒(いんけん=1841~1912年)・乙字(1881~1920年)親子。幕末から大正元年まで生きた筠軒は、日本有数の漢詩人にして画家・学者、息子の乙字は明治~大正の俳人・俳論家だ。
震災前の2010年5月、いわき地域学會に連絡がきて、仲間3人と茨城県ひたちなか市へ調査に出かけた。乙字の最初の妻(宮内千代)の出身地(旧那珂湊町)で、縁者の家に筠軒・乙字関係の資料が残っていた。
大きくはないトランクと、それより小さいトランクに、手紙やはがき、絵の下書きなどが詰まっていた。「賢治のトランク」ならぬ「乙字のトランク」だった。
それから9年後の2019年春~夏、勿来関文学歴史館でこの資料を紹介する「乙字のトランク展」が開かれた。
乙字は若いころ、五七五調にとらわれない「新傾向俳句」の河東碧梧桐に師事した。また、私たちが普通に使っている「季語」を初めて用いた人間でもある。38歳という若さで亡くなった。死因は肺炎だが、それを誘発したのはスペイン風邪だった。
「乙字のトランク展」は、その意味ではスペイン風邪100年、乙字没後100年を見すえた記念展でもあった。
さて、四倉の乙字展では彼の短冊・掛け軸、そして額装品をじかに見て感じるものがあった。江戸時代の俳人と違って、乙字はそんなに字を崩さない。なんとなく全体がわかる。わきに緑川さんの「釈文」が添えられている。これが難字の読みを助ける。
掛け軸は「山気(さんき)夢を醒(さま)せば蟆(ひき)の座を這へる」(大正3=1914年)「湖光銀泥を消すは峰雲かかるなり」(同6=1917年)。どちらも定型を超えた新傾向俳句の印象が強い。
現在は久之浜の波立寺蔵となっている額装品は、富士山の絵(作者不詳)に乙字が「霧脚(きりあし)のすばやき裾野芒哉(すすきかな)」の句を添えたものだ。父親の筠軒も宿泊するほど交流のあった名家が所有していたという。同寺には筠軒の漢詩碑が立つ。その意味では、落ち着くところに落ち着いた。
崩しの少ない乙字の書から近代俳人の一面がうかがえたが、富士山の絵からもなにか新しいものを感じとることができた。水墨画には違いないのだが、写実的な雰囲気がある。この額装品も一見の価値がある。
1 件のコメント:
貴重なスペースを割いていただき有難うございます。
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