2021年10月9日土曜日

「いわきの新聞事始め」

                     
   初夏に、いわき市平の印刷会社「ネクスト情報はましん」の社報「TOMBO(トンボ)」の取材を受けた。それが10月発行の第115号に載った=写真。

 「いわきの新聞事始め」のタイトルで、いわきで最初に発行された「磐前(いわさき)新聞」を紹介し、同新聞についての私の感想を載せている。

まずは「磐前新聞」について。拙ブログで何度か取り上げているので、それを抜粋する。

明治4(1871)年7月に廃藩置県の詔書が発令されると、いわき地方は短期間に磐城平県平県磐前県と変わる。磐前県の範囲は現在の浜通りと田村郡、石川郡、白川郡(現在の東白川郡)で、平に県庁が置かれた。

磐前県は同6年、布告類の迅速な配布・周知を徹底するため活版印刷機を導入し、5月から活版印刷の県布告を発行した。さらに、同年10月、「磐前新聞」第1号を県庁内の新聞紙局で印刷・発行した。同新聞は第3号まで確認されている。

同紙は和紙二つ折りの冊子タイプで、現代の一般的な単行本よりは一回り大きい。第3号にだけ表紙の欄外に「定価1銭8厘」とある。

「いわきの新聞事始め」では、同6年8月発行の「磐前県一覧表」にも触れている。一覧表の「會社」欄に「新聞紙局 1 中」「同展観社 7 市在」とある。新聞紙局が県庁内に、新聞展観所が県内7カ所にあったことがわかる。

それとは別に、当時、新聞の回し読みが行われていたことを示す資料も紹介した。私にはこれがおもしろかった。『白井遠平伝』(白井遠平伝記刊行会、昭和28=1953年)にその様子が記されている。

夏井川をはさんだ小川・赤井エリアでのこと。「東京横浜毎日新聞」が東京から赤井村の柏原家に郵送される。その日のうちに、新聞は隣村・西小川村の佐藤家に回される。佐藤家は翌朝、朝食前に高萩村の草野家へ手渡し、夕方までに塩田村の若松家へ届けられる(こちらは右岸域)。

若松家は新聞を読むと、対岸の柳井家へ鳴子で知らせる。すると、柳井家では寒暖・晴雨を問わず、夏井川を渡って新聞を取りに来る。そのあとは白井家、草野家へと回され、最終的には草野高蔵宅に届き、高蔵は破れ目には目張りをしてこれを保存した(こちらは左岸域)。

ちょっとややこしいが、高蔵は詩人草野心平の祖父、遠平は実祖父だ。高蔵は県会議員・村長を経験し、遠平は衆議院議員を経験した実業家として知られる。

東京横浜毎日新聞は、前身が日本で最初の日刊紙「横浜毎日新聞」(明治3年創刊)だ。その後買収されて東京に移り、同11~18年は「東京横浜毎日新聞」として発行を続けた。つまり、『白井遠平伝』に載る新聞回し読みは明治10年代のことと解釈できる。

「磐前新聞」の話に戻る。行政の広報だけでなく、自然災害や刑事裁判も扱っている。刑事事件では、抜刀して押し入った強盗に「斬刑」、あるいは窃盗したが内済したので「杖60」という判決が載る。

明治の初期には江戸時代の刑罰をそのまま適用していた。いわゆる「笞・杖・徒・流・死(ちじょうずるし)」。「トンボ」では、ここの部分が変換ミスで「地上吊るし」になってしまった、ここだけ訂正しておく。

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