2021年10月15日金曜日

「新聞打者」の落とし穴

                      
 リタイア後も地域に根っこを生やした「新聞記者」のつもりでブログを書いている。その意味では「記者生活50年」になる。

 アナログ人間である。その人間がデジタル社会のなかで何を心に留めているかというと、メモは「手書き」で通すこと、これだけ。

 1990年代半ばには、地域新聞社も原稿製作が「手書き」から「パソコン入力」に切り替わった。そのとき、新聞記者は「新聞打者」になった。

書くということは、自分の脳内に文字を浮かび上がらせ、腕から手、指へと伝え、鉛筆あるいはボールペンを使ってそれを紙に記す、きわめて肉体的な行為だ。その行為の繰り返し、経験が体に蓄積されて次に生かされる――と私は思っている。

 記事の書き方がアナログからデジタルに変わり、新聞記者が新聞打者になって何が起きたか

文章を書き直すのに、原稿用紙をクシャクシャにしてくずかごにポイッ、がなくなった。原稿の修正が楽になった。過去のデータもすぐ引き出せる。半面、生身の体は、脳はなにか大切なものを失ったような気がしてならない。

たとえば「薔薇」の字、これが書けなくなった。キーボードで入力すると、パソコン画面に候補の漢字が現れる。記者は(一般の人もそうだが)「薔薇」を選択するだけでよくなった。

「書く」ことをやめて、外部に映る漢字を「選ぶ」だけになった結果、漢字がどんどん自分の脳からこぼれ落ちていく――そんなイメージを抱くようになった。

私は、パソコンを「外部の脳」、自分の脳を「内部の脳」と区別して考える。外部の脳に文章の処理を任せるようになってから、内部の脳はすっかり書くことから遠ざかった。

人間の脳は、使わなければ退化する、パソコンやスマホが普通になった今、人間の脳はこれから小さくなっていくのではないか、といった危惧を抱かざるを得ない。

 それを避けるために、意識して実践しているのがメモの手書きだ。在宅ワークが基本なので、パソコンのわきにA4判のメモ用紙(新聞に折り込まれる「お悔やみ情報」の裏面)を常備している。朝から夜寝るまで、見たこと・聞いたこと・感じたこと・考えたことをメモし続ける=写真

日常を記録することで、日常に埋もれているニュースを掘り起こすこともできる。一種の自己鍛錬として、これを10年以上続けている。

 書くことは肉体的な行為だ。書く習慣が薄れると考える力も衰える。アナログ人間だからこそわかるデジタル文化の落とし穴といってもよい。

 アンデシュ・ハンセン/久山葉子訳『スマホ脳』(新潮新書)にこんな一節がある。子供は「ペンを使って練習をすることで文字を覚えていく。就学前の子供を対象にした研究では、手で、つまり紙とペンで書くという運動能力が、文字を読む能力とも深くかかわっている」

「書く」という運動能力、つまりは肉体的な行為と「読む」能力は密接な関係にある。大人だって「書く」ことをやめたら、識字力は衰える。

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