ふだんから付き合いがあったわけではない。が、友人を介した集まりで顔を合わせていたので、前から知っていた。
写真を撮ったり、文章を書いたりするのが好きだということも知っていた。いわき市久之浜町のまちづくり団体が年2回発行した会報「久之浜通信」に、「大久村の戦後開拓」について書いていたことを覚えている。
新聞折込の「お悔み情報」で彼の死を知った。享年68。ああ、今まで頑張ってきたんだな――そう思った。
フェイスブックでは友達になっていた。同じフェイスブックの友達が、彼の訃報を受けて書いている。去年(2021年)4月、いわき市医療センターで車いすに乗った彼と会い、その後、本人から余命云々の知らせがあったという。
余命云々の話は私も承知していた。同じころ、本人がフェイスブックで公表していたように記憶する。
私は一日に1回、ブログをアップする。それをツイッターとフェイスブックにも投稿する。内容のよしあしはともかく、「読んだよ」というサインの「いいね」を押す人が一定数いる。その一人だった。
今回あらためてフェイスブックでチェックすると、師走の中旬までは毎日「いいね」を押していた。それが、次第に間隔があき、1月中旬には途切れて29日が最後の「いいね」だった。
山菜やキノコの話を書くと、コメントを寄せてくれた。彼も山里で育った。「マイ里山」を持っている。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス=会員制交流サイト)のなかではやりとりがあった方だろう。
他人のシェアではなく、文章付きの彼自身の投稿は1月7日が最後になった。山桜の花の写真に「早く春になるといいな。この山桜は毎年3月彼岸前に開花します。……マイ里山」。ワラビとタラの芽の写真にも、最初と最後に同じ言葉を用いて「ワラビ、タラボ沢山取りたいな」と添えた=写真。
リアルな世界で彼に会ったのは、令和2(2020)年1~2月に計5回、いわき総合図書館で「図書館『いわき学』講座」が開かれたときだ。
4回目に「吉野せい『洟をたらした神』を読み解く」と題して話した。講義が終わって彼が質問した。どんな質問で、どう答えたかはもう忘れたが、生身のやりとりはこれが最後だった。
彼は高校時代、新聞部に属していたと聞いたことがある。「大久村の戦後開拓」をベースにした彼のノンフィクション作品を読んだこともある。
私は新聞記者を生業にしていて、現役のときも今も評論家大宅壮一のいう「無思想の思想」を信条にしている。彼は私と違って、思想・行動が明確な人間だった。
それはそれとして、地域の歴史を調べ、写真に撮り、文章にして伝えるという行為は、おそらく彼の高校時代が「原点」になっていたのではないか。そう思うと、一種の「同志」意識もわく。合掌。
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