茶の間のテレビの後ろの壁に平成23(2011)年3月のカレンダーが張ってある。ふすまを取り払った隣室の壁には、今年(2022年)のカレンダーがかかっている=写真。なにげなく2つのカレンダーを見て、カミサンがつぶやいた。「11年前と同じだ」
何が同じか。11年前の3月11日は金曜日だった。今年の3月11日も金曜日だ。6年前の平成28(2016)年も金曜日だった。そのときの記録がある。
――カミサンがシャプラニール=市民による海外協力の会いわき連絡会の代表をしている。震災後、一時、評議員を務めた。
2016年3月30日、同じ評議員(当時)の大橋正明さん(聖心女子大教授)から電話が入った。「あした朝8時半におじゃまする」。大橋さんがわが家へ来るのは5年と4日ぶりだ。3月のカレンダーが5年前と同じなので、簡単に日数がわかる。
最初は震災直後の2011年3月27日にやって来た。シャプラはすでにいわき市で緊急支援を続けていた。私ら夫婦が一時避難から帰宅した直後、連絡が取れて、当時、副代表理事だった大橋さんら3人が来訪した。その日、一緒に市内を巡り、中長期的なシャプラの支援方針がかたまった――。
第3月曜日の3月21日は祝日「春分の日」。20日の日曜日と合わせて二つ、赤い数字が続く。11年前のカレンダーは赤色が退色してくすんだピンク色になっている。
あの年の3月20日、日曜日。避難先の西郷村・国立那須甲子(かし)青少年自然の家にいて、「あしたは彼岸の中日、墓参りができないなぁ」「空き巣に入られているかもしれない」「飼い猫はどうしたろう」などと、落ち着かない気持ちでいた。
原発事故に関してはひとまず暴走にブレーキがかかり、それと引き換えに、いわきを離れた不安がふくらんできたのだった。
23日、いわきへ戻ることを決める。車(フィット)の燃料計の針は「E(空っぽ)」からわずか4つめの目盛を指していた。車載の取扱説明書を初めてじっくり読んだ。
ガソリンの容量は42リットル。燃料計の目盛は25ある。一目盛当たり約1.8リットルで、「リッター20キロ」として残量7.2リットル、140キロ超は走行が可能だ。いわきへの最短コース、国道289号を利用すればガス欠をせずに帰宅できるだろう。
西郷村は阿武隈川の源流域。国道289号に出ると、ただひたすら南東方向のいわき市へ――。白河市~棚倉町~鮫川村へと進んだところで、燃料計のスタンドマーク(燃料残量警告灯)が点灯したが、正午すぎ、なんとかわが家へ帰還した。
あしかけ9日間の避難所生活はひとまず終わった。水道は25日に復旧した。そして2日後、シャプラの大橋さんたちがやって来た。
東日本大震災と原発事故がおきてからわずか11年だが、自然災害が相次いでいる。新型コロナウイルスが猛威を振るっている。ロシアのウクライナ侵攻が起きて激しさを増している。大激動はいつまで続くのか。
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