たまたま用事があって近くの家を訪ねた。お茶を飲んでいるところへ、隣家の知人もやって来た。ロシアのウクライナ侵攻と日本の政治の話になった。
メディアは連日、「侵略戦争」のニュースを報じている。ウクライナはこれからどうなるのか。欧州は、世界は、サハリン(樺太)から液化天然ガス(LNG)を輸入している日本の市民の暮らしは……。
11年前、原発避難を経験した。テレビが伝える戦争避難の映像に、「あのとき」の記憶がよみがえった。ブログから当時の様子を振り返る。
――平成23(2011)年3月11日に発生した大地震と大津波で翌12日に福島第一原発の1号機建屋が、14日に3号機の建屋が爆発した。福島中央テレビがその瞬間をとらえた。3号機では黒い煙が上がった。避難を覚悟した。
15日午後1時過ぎ、息子一家と車2台でカミサンの実家を出発、とりあえず国道49号~平田村左折のルートで白河市を目指した。
49号に出ると、中通り以西へ避難する車の列が延々と続いていた。好間町を過ぎ、三和町に入ってからもしばらくノロノロ運転を余儀なくされた。
三和町上三坂を過ぎ、平田村へ入ったとき、<とうとういわきを離れてしまった>という感慨に打ちのめされた。
平田村で左折したが、「先が通行止めになっている」というので、49号を郡山へ向かい、谷田川から須賀川へ抜けて国道4号を南下するルートをとる。
須賀川に入ると渋滞に巻き込まれた。渋滞は白河市内へ抜けるまで続いた。途中、赤信号で流れを分断されたために、息子の車と私の車の間には十数台もの車が入り込んでいた。白河へ近づくにしたがって、ケータイで連絡を取り合うケースが多くなった。
「県南保健福祉事務所でスクリーニングを受けることにしよう」。そこが落ち合う場所になった。
平を出てからおよそ5時間半。あたりはすっかり暗くなり、小雨が降っている。県南保健福祉事務所に着くと、スクリーニングを受ける浜通りの原発難民でごった返していた。
「除染処置不要のレベル 問題なし」の証明書をもらい、紹介された避難所(西郷村の国立那須甲子青少年自然の家)へ向かうころには、夜9時を回っていた――。
原発事故の場合は遠くへ行くことだけを考えればよかった。ウクライナではしかし、どこからミサイルが飛んでくるかわからない。国のために戦う父親や夫や恋人とも別れなければならない。死と隣り合わせの不安と恐怖は「あのとき」の比ではない。
すでに何十万という市民が国外に避難した。避難したあとも苦難は続く。同じ太陽が巡っても、月が輝いても、拠って立つ場所を失った心はなかなか安らげない。
それでも、花を見たら「美しい」と感じてほしい。感動がやがては希望へとかわっていくはずだから――涙をこらえてメディアのインタビューに答える小さな子に、ついこちらも祈るような思いで呼びかけたくなるのだった。
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