庭のヒヤシンスがピンク色の花を咲かせた=写真。春の陽光が庭に降り注いだと思ったら、翌日には冷たい北西風が吹き荒れる。そんな日には花を見てほぐれた心がかじかむ。
小学2年生になって間もない夜、町が強風にあおられて炎に包まれた。翌朝、裏山の畑から焼け野原になった通りへ下りると、新聞記者に声をかけられた。「坊やのおうちはどこ?」
父親が焼け跡で何かやっている。そこが自分の家があったところだろうとは思いながらも、「知らない」と答えた。ウソをついたという自覚があとあとまで残った。
そのことをちょっと前に書いた(3月8日付ブログ「こども科学電話相談」)。その2日後、テレビのチャンネルをBSプレミアムに切り替えたら、「ヒューマニエンス」をやっていた。テーマは「“嘘” ウソでわかる人間のホント」。ウソを学ぶチャンスだ。背筋を伸ばしてテレビと向き合った。
番組宣伝文を抜粋する。ウソ、それは人間社会を円滑にする潤滑油。社会のいたるところでウソは必要とされている。その代表が人を思いやる「ホワイト・ライ」。人間は正直さと優しさを天秤にかけたとき、優しいウソを選ぶ――。
そもそものきっかけは、日曜日のNHKラジオ「こども科学電話相談」だった。小2の女の子が「人間はなんでうそをつくんですか」と質問した。答えは「便利だから」と「心は二つある」だった。
「便利だから」では「ウソも方便」を連想した。「心は二つある」は、「ウソをついてはいけない」という倫理と、相手を思ってウソをつくことによる葛藤が思い浮かんだ。
「ヒューマニエンス」で初めて、「ホワイト・ライ」という言葉を知った。心理学の分野では基本の基なのだろうが、素人はそこへたどり着くまでに時間がかかる。
「相手のことを思ってつく悪意のないウソ」のことだという。ホワイト・ライは7~8歳で始まる。ラジオで質問した女の子の年齢がそうだし、焼け野原の町で記者に答えた私もそうだった。
同じウソでも二つある。ホワイト・ライのほかに、悪意があり、自分のためにつくウソを「ブラック・ライ」というそうだ。今、戦争をしている国にあふれているのはこちらのウソだろう。
記者にホワイト・ライで接した子どもが、大人になって記者になった。子どもを取材することももちろんあった。絶えず、自分の経験が思い浮かんだ。
心で考えていることと口から出てくる言葉には距離がある。質問に沿った言葉が返ってくる、子どもってそういうもんだと、自分の経験から自分に言い聞かせたものだ。
去年(2021年)の3月は3・11から満10年。メディアはいろいろ特集番組を放送した。なかにBS1スペシャル「新3・11万葉集」で、いわき市内の私立高校に通う生徒の作品が紹介された。
「震災のこと 取材で話すとき感じる 自分ではない自分」。この生徒もまた、ウソはついていないが、ホワイト・ライに近い感情を抱いていたのだろう。
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