夏井川渓谷に通称「百人小屋」というところがある。正式には小川町上小川字香後(こうご)。そこの県道小野四倉線沿いに、オオシマザクラと思われるヤマザクラがある、道路わきの杉の木が伐採されて空間ができた、それで桜の花が見えるようになった――。
そんな話をブログに書き、いわき民報の拙コラム「夕刊発磐城蘭土紀行」に転載すると、知人から電話が入った。
香後の対岸は小川町塩田字江田。通称・向江田(むかいえだ)で、数軒の家と田んぼがある。
「百人小屋にヤマザクラが1本あった。花が咲くと、向江田では田んぼの水路の普請をした。それで、『普請桜(ふしんざくら)』と呼んでいた」
知人の祖父は小川・高崎の対岸、小川町塩田字塩沢に住み、夏井川渓谷を含む近隣の山のことや地域の歴史、キノコ・山菜などに精通していた。その祖父から聞き書きした私家本『塩沢抄』がある。それに載っているという。
数年前、『塩沢抄』の恵贈にあずかった。さっそく確かめる。官行事業で木を切られたとき、一本だけ残してもらった――そんなエピソードがあることもわかった。
仮にそのヤマザクラが県道のそばにあったものだとしたら、対岸の向江田からはよく見える。花が咲けば、田植えの下準備が始まる。これほど確かな目安はない。
『塩沢抄』には百人小屋の由来も記されていた。県道をつくるころ、百人小屋ができた。作業員がたくさん泊まっていたから、そういう名になった――。
前述のブログではこんなことを書いた。大正6(1907)年10月10日、渓谷を縫う磐越東線が全通する。その建設のために作業員が寝泊まりしたところ、と聞いた覚えがあるようなないような――。記憶があやふやだった、線路ではなく道路の建設だった。
県道小野四倉線は明治10年代の中ごろ、県令三島通庸が福島県内の主要道路を改修した際につくられた。それと関連づけて調べたら、場所なども特定できそうだ。
さて、渓谷の県道沿いにところどころ杉林がある。渓谷はもともと広葉樹が主体だから、杉はあとになって人間が植えた。
香後の杉林が一部伐採されたのは、12年前の平成22(2010)年3月=写真。谷側とはいえ、川と道路に沿って平坦なスペースがのびる。
地理院地図で等高線を追うと、小屋を建てられるような緩やかな斜面は限られる。香後の杉林がそれに該当する。明治時代、そこに小屋が何棟もあって、作業員が寝泊まりしていたのだろうか。
道路が完成したあとはどうなったか。杉の木はそんなに太くない。おそらく戦後、杉林に替わった――そんな印象を受ける。
そこに残っている一本のヤマザクラが「普請桜」ではなかったとしても、人間の暮らしと結びついたヤマザクラがあったこと、県道建設のための作業員の宿舎がそのへんのどこかにあったことは記録にとどめておきたい。住民も土地の歴史を語り継いでほしい、そんな思いも募る。
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