いわき市小川町の関場を過ぎると、国道399号に夏井川が並行する。道路をはさんだ山側と岸辺で、ニセアカシアが白い花をまとっている=写真。
ずっと下流、中神谷の河川敷でもニセアカシアが自生し、5月になると花を咲かせていたが、令和元年東日本台風被害からの復旧・国土強靭化事業のなかで、立木伐採・堆積土砂撤去が行われ、ほとんど姿を消した。
同じころ、いわきの平地の山では、暗い緑と明るい緑がまだら模様になる。5月中旬にはさらに、明るい緑に「黄色いかたまり」が点々と交じる。
それに気づいたのは、平菅波(国道6号)~同上高久(県道下高久谷川瀬線)を車で移動していたときだ。暗い緑は杉、明るい緑は落葉樹と照葉樹(常緑樹)。照葉樹のなかにはクスノキも交じっているかもしれない。
カミサンがたまたま現代の女性3人による連歌(れんが)の解説書を読んでいたときだ。
最初の連歌の発句に「老楠といへども五月(さつき)若葉かな」とあった。なにかピンときたらしい。「これ、この句」と本を差し出した。「おお、わかる」。私も応じた。
解説には「老い楠も若葉を茂らせる五月の力強さ。ハイネの『美しき五月になれば』や佐藤春夫の『望郷五月歌』を思い出す。『熟年女性のわれわれも、若さにあふれて、さあ世吉(よよし)連歌に挑戦しよう』という意気込みとか」とあった。
「世吉」とは44句を詠みつなぐ連歌のことである。その最初の例句に引かれたのは、解説にもあるように、老楠の若葉から熟年世代の元気を連想したからだった。
時の移り行きをどうとらえるか。時間は過ぎ去るのか、何度も巡って来るのか。若いときに、2歳年下の哲学者内山節さんの著書をむさぼり読んだ。そのなかで学んだことがある。
自然の中では、時間は循環している。落葉樹でいえば、春に木の芽が吹き、夏に葉を広げ、秋に実をつけて、冬には葉を落とす。1年ごとにこれを繰り返す。
つまり、時間は「年輪」となって木の内部に蓄積される。常緑のクスノキも基本的には同じだろう。初夏には若葉をまとって、古い葉を落とす。
老人も体力的にはともかく、蓄積された経験と時間のなかで生きている。初夏になれば気持ちが若々しくなる――そんな解釈が可能になる。
「背筋がシャンとしている」。あるとき、知り合いの若い娘さんにいわれた。「背筋がシャンとしている人にボケている人は少ないよね」。そういう見方があるのかどうかはわからない。が、悪い気はしなかった。
カミサンからはいつも注意される。「背中が丸まっているよ」。そのたびに陸上競技部時代の歩き方をイメージする。少なくとも、シャンとしているうちは「ボケ度」は目立たないだろう。これだって「老楠といへども五月若葉かな』だ。
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