日曜日のたびに平の郊外~小川町を通る。田んぼが耕起され、あぜ塗りが行われ、水が入ったと思ったら、もう田植えが終わっている。
4月末までは刈田だったのが、5月も中旬の今は、すっかり緑の苗がそよぐ水田に変わった。
私たちが子どものころは、梅雨時が田植えのピークだった。苗の生長に欠かせない水が天から降ってくる、そういう気象条件を利用していたのだろう。それからすると、今は1カ月は早い。
それに、昔は牛馬と人力が頼りだった。家族はもちろん、親戚その他が駆けつけて苗を植えた。私も母親の実家の田植えにくっついて行って、田んぼに苗を投げ込むのを手伝ったことがある。
阿武隈の山里で生まれ育った。両親は町の中で床屋を営んでいた。農家ではなかったが、親戚の田植えと稲刈りの手伝いには駆り出された。
そんな子どもにも忘れ難い田植えの光景がある。小学6年生になって間もない6月。汽車で小名浜港へ日帰りの修学旅行が行われた。夏井川渓谷を過ぎると、急に平野が広がり、人がいっぱい出て田植えをしていた。
いわきの住人になり、日曜日ごとに渓谷の隠居へ通っている今は、そこが小川町の片石田であることを知っている。
ここでも、田植え時に人があふれるようなことはなくなった。トラクターが耕起し、水の張られた田んぼで代かきをし、田植え機が行ったり来たりする。稲刈り時期になるとコンバインが入る。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のひとつ、フェイスブックでも田植えの画像がアップされる。それで、米を作る側の情報も手に入る。耕運機はもちろんだが、田植え機にも人間が歩きながら動かすものがある。
稲作関係だけでも、多種多様な機械がある。機械がないと小人数ではやっていけない、ということは、田んぼの中の道路を行き来するだけの人間にもわかる。
それ以外にも、農家にはいろんな機械があるようだ。先日は、小川町の道路沿いのナシ園で赤い車を見た=写真。
なんだ、これは! カミサンはもちろん、私も初めて見る農業機械だ。あとで、ネットで検索したら、「スピードスプレーヤー」というものらしい。
果樹園は広い。歩いて薬剤噴霧をするには骨が折れる。それをゴーカートのような機械でやるのだ。胴体にタンクがあり、その後ろに噴霧のための送風機が付いている。
「百姓バッパ」を自称した作家吉野せいは、夫の詩人三野混沌(吉野義也)とともにナシを栽培して生計を立てた。
どの芽を残すか、「この芽ならいい花がつくってことはもう冬のうちから見通しです」「果物づくりは面白いので、わたしはよく研究しました」。1歳にも満たずに亡くなった次女には、「梨花(りか)」と名づけた。
それほどせいはナシ栽培に打ちこんだ。せいが生きていた時代には、むろん赤い車はなかっただろう。が、働きづめの生産者としては、そういうものを夢に見ることはなかったかどうか――赤い車を見て、ふとそんなことを思った。
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