2022年6月17日金曜日

暮鳥と茨城を特集

        
 毎月、水戸市の常陽藝文センターから「常陽藝文」が届く。唯一の定期購読誌だ。藝文友の会(年会費4700円)に入ると、郵送されてくる。会費は常陽銀行の預金口座から自動引き落としで払う。

「常陽」の「常」は古代の「常陸(ひたち)国」からきている。「常磐」も同じで、常陸と地続きの磐城を併称した呼び名だ。

常陸(茨城県)と磐城(いわき市)は結びつきが深い。いわきの近世俳諧や近代詩を調べると、常陸のそれと深く広くつながっていることがわかる。その象徴が磐城平・山崎の専称寺で修行した江戸後期の俳僧一具庵一具、それに詩人の山村暮鳥と野口雨情だ。

預金口座が常陽の平支店にあるので、定期購読をする前は支店へ行くたびにロビーにある「常陽藝文」を手に取った。

震災後の2012年1月号は、巻頭特集の<藝文風土記>が「詩人・大関五郎の足跡をたどる 水戸市、大洗町、鉾田市ほか」だった。

大関五郎は山村暮鳥の有力な支援者の一人。野口雨情ともつながりがある。少しでも人となりを知りたい人間には、のどから手が出る資料だ。

窓口で懇願すること二度、先輩行員と相談して奥へ行くと、「ありました」と1冊を持ってきてくれた。それから定期購読を始めた。

 最新の2022年6月号では「詩人・山村暮鳥 その作品世界と茨城」を丸ごと特集していた=写真。いわきに縁のある詩人山村暮鳥は大正13(1924)年12月8日、茨城の大洗で、40歳で亡くなる。茨城を舞台にした作品を紹介している。

 暮鳥終焉の地となった大洗町に絞って書く。昭和2(1927)年5月、海岸の松林の中に小川芋銭筆による「ある時」という詩碑が立った。「雲もまた自分のやうだ/(略)/おう老子よ/こんなときだ/にこにことして/ひょっこりとでてきませんか」

「おうい雲よ……ずっと磐城平(いわきたいら)の方までゆくんか」などに続く雲の詩群のひとつで、吉野せいの「夢」(『洟をたらした神』所収)に、せいが詩碑を訪ねたシーンが描かれる。(今回初めて、「常陽藝文」を介してその様子がはっきりと見えてきた)

暮鳥の盟友だった夫の三野混沌(吉野義也)が亡くなったあと、息子が運転する小型トラックで埼玉県まで苗木や鉢物を買いに行った帰り、初めて磯浜を回って大洗の海を見る。さらに黒松の生えた丘陵に暮鳥の碑を訪ねる。

詩碑に手を触れながら海をぼんやりと眺めつくしたあと、せいはこう文章を終える。「それは真実の出来事であったのに、何だか遠いもう何もかもすべてが私の見る夢の中に浮かぶ一つの鮮やかな点描であったように思えてならない」

 「それ」は何を指すのか。詩碑を訪ねたことか。そうではあるまい。「辛酸にみちた生涯のうちで一番生命の火を燃やした」平時代の暮鳥、「当時にぎやかにとり巻いた青年男女」(せいも暮鳥とつながっていた)、そして暮鳥と混沌との3600日に及ぶ交流――。せいは結婚前後の自分の姿を、暮鳥を、文学仲間を、混沌を夢と同質の距離感で回想していたのだ。

0 件のコメント: