サントリー文化財団などが編集して年に2回発行される雑誌がある。「アクティオン」。最新号では「経済学の常識、世間の常識」という特集を組んだ。
ここでは特集ではなく、「時評」の一つ、建築史家・建築家藤森照信さんのコラム「建築とスパイ」=写真=を取り上げたい。一読して、とにかく驚いた。
戦前、世界的に知られた建築家にアメリカのフランク・ロイド・ライトがいる。ライトが帝国ホテルを建設するとき、スタッフとして弟子のアントニン・レーモンドが来日した。
レーモンドはやがて独立し、東京に事務所を構える。前川國男や吉川順三らが彼のもとで学んだ。
日本を取り巻く国際情勢が悪化するなか、レーモンドはアメリカに戻り、太平洋戦争が終わると再来日して設計の仕事を続けた。
藤森さんには、レーモンドに長年抱いてきた「小さな謎」があった。秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ――GHQが東京に刻んだ戦後』(新潮文庫、2011年)を読むことでその謎が解ける。彼はアメリカの諜報部員だった。そのことを紹介するコラムだった。
この時評を読んで、一時期、レーモンドについて調べていたことを思い出した。あのレーモンドが? しばし、信じられない思いにとらわれた。
いわきの、その建物はフランク・ロイド・ライトの弟子が設計した、という情報に接したのは何年前だったか。平字六軒門の元・聖ミカエル幼稚園だ。
40年ちょっと前、子どもが通っていた。運営母体は日本聖公会。礼拝堂が園舎を兼ねた。
大正時代、磐城平で牧師として布教活動をした土田八九十(はくじゅう=詩人山村暮鳥)がいる。その流れをくむ教会兼幼稚園だ。
昭和54(1979)年に創刊された平聖ミカエル会衆の機関紙「ミカエルの園」によると、常磐線開通後、水戸からキリスト教の伝道が行われ、明治36(1903)年に平に講義所が開設される。
講義所はその後、「聖オーガスチン教会」「平聖ミカエル海岸教会」などと名を変える。戦後の昭和24(1949)年、小名浜での伝道が開始され、小名浜の教会(聖テモテ)に加わることになって、平の敷地が売却された。
やがて、「平にも教会を」という声が強まり、同36(1961)年、現在地に礼拝堂兼幼稚園の建物がつくられた。
この建物を設計したのがライトの弟子、ということで、検索してたどりついたのがレーモンドだった。確証はない。が、国内に残るレーモンドの建築物をネットで探ると、共通性がある。たぶん間違いない、私はそう思っている。
レーモンドは帰米すると、軍の要請で油脂焼夷弾の爆撃実験のため、砂漠に実物そっくりの日本の下町の家並みをつくった。藤森さんの「小さな謎」とはこれに関係するものだったろう。
さらに、レーモンドのもう一つの顔がアメリカの公開史料から明らかになる。親しい日本人を巻き込んで軍と反軍国勢力の摩擦の拡大を図ろうとした(太平洋戦争前の再来日は実現しなかったが)――。人間の裏面に触れて、いっとき気持ちが落ち込んだ。
1 件のコメント:
初めまして。 よもぎと申します。
カフカフカさんというブロガーさんの『ルソイの半バックパッカー旅』経由で
お邪魔しました。
とても勉強になりました!
諜報の仕事をする人は、相手国で役だつ職業の資格をあらかじめとっておいて
その仕事で相手国に溶け込み
本来の目的を果たす、という話は聞いたことがあります。
帰国後、日本の家屋の燃えやすさなどがわかるように砂漠に模型?を
建てる。。
焼夷弾で焼かれる東京や地方には彼自身が設計し、建てた家屋も
あるはす。
冷徹な人格とプロ意識をもって仕事に励んだのですね。
または、気が進まない中、国に利用されてしまったのでしょうか?
中南米のジャングルに残った遺跡を調べることが好きだった夫妻が
戦争中に、軍がジャングルで生活するためのノウハウを
教える仕事に、いやいや就かされたというお話は読んだことがありました。
では失礼します。
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