昭和16(1941)年12月8日の太平洋戦争開戦時に20歳未満だった女性(作家や詩人、タレントなど)によるエッセー集を、著者の生年順に収録した本だという。
カミサンが移動図書館から借りた中央公論新社編『少女たちの戦争』(2021年)=写真=で、瀬戸内寂聴さんから佐野洋子さんまで27人の著名人のエッセーを収録している。
ロシアがウクライナに侵攻して3カ月余り。ある日突然、ウクライナの街や村が戦場と化し、インフラが破壊され、住民が死傷する――連日、生々しい映像を見るにつけ、「戦争とは何か」という疑問がふくらむ。
その答えのひとつが、戦争を引き起こす権力者とは対極にある、戦争に巻き込まれた側の肉声だろう。
『少女たちの戦争』はいわば「銃後」の暮らしや空襲、内面の動きをつづる。たとえば向田邦子さん。昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲の様子を生々しく描写する。
向田さんは当時、女学校の3年生だった。軍需工場に動員されて旋盤を回していたが、終戦の年は脚気で家にいた。寝入りばなを空襲警報で起こされる。
たちまち焼夷弾で火の手が上がる。「三方を火に囲まれ、もはやこれまでという時に、どうしたわけか急に風向きが変り、夜が明けたら、我が隣組だけが噓のように焼け残っていた」
同年代の大庭みな子さんは広島から30キロほど東、西条にあった女学校の教室で軍服のシャツのボタン穴をかがっていた。
原爆が投下された朝、「世界が瞬時漂白されるような光に打たれて、妙な響きがあった。空襲警報も出ていなかったが、間もなく誰かが広島の方向に妙な雲が湧いていると言った」
昼近くなって広島に新型爆弾が落とされたらしいことがわかる。被爆者たちが西条の町にも流れ込んで来たからだった。
そして終戦後すぐ、大庭さんたちの学年は全員、広島の被爆地の収容所に動員され、被爆者の食事の世話をした。
ほかにも、それぞれの戦争体験がつづられる。シャンソン歌手石井好子さんの文章には、戦争とは別の「発見」があった。
終戦とともに石井さんはポピュラー歌手に転向する。それまで打ち込んでいたドイツ歌曲と決別するため、譜面を売り払った。しかし、ただ1冊、シューマン作曲の「詩人の恋」(ハイネの詩による全16曲)は手元に残した。
その1曲目が「美しい五月」だった。その詩を冒頭に紹介している。「美しい五月になって/すべての蕾がひらくときに/私の胸にも 恋がもえいでた//美しい五月になって/すべての鳥がうたうときに/私は胸の思いを あの人にうちあけた」(深田甫訳)
前に連歌の発句「老楠といへども五月(さつき)若葉かな」に併せて、解説者がハイネの『美しき五月になれば』を紹介していた。その中身がこれだった。読書の余禄というほかない。
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