2022年7月15日金曜日

ケストナーの『終戦日記』

 ウクライナでの戦争が頭から離れない。それもあって、図書館から借りて読んだ。ドイツの児童文学作家エーリヒ・ケストナー/酒寄進一訳『終戦日記一九四五』(岩波文庫、2022年)=写真。

 第二次世界大戦末期の1945年2月から、ドイツの無条件降伏(同年5月)、連合軍による占領へと続く8月までの、主に疎開生活がつづられる。

 ケストナー(1899~1974年)は1933年、ナチが政権を掌握すると作家活動を禁止され、著書は焚書にされた。多くの友人・知人が亡命するなかで、あえてドイツにとどまった――という解説を読んで、日本のジャーナリスト・外交評論家清沢洌(きよし=1890~1945年)を思い出した。

 清沢は太平洋戦争開戦から1年後、「戦争日記」を書き始める。日記は同20年5月、清沢の死とともに終わり、戦後の同29年、東洋経済新報社から『暗黒日記』として刊行された。

ケストナーと共通するところがある。清沢は自由主義の立場で評論活動を展開したため、太平洋戦争が始まる前の昭和16(1941)年2月、総合雑誌への執筆を禁止された。

 文章を発表する場所も機会も奪われた作家、評論家にとっては、日記だけが自己表現の場だった。

『終戦日記』の前半には新聞の切り抜きやラジオ放送の記録が目立つという。『暗黒日記』も同じで、新聞の切り抜きなどが多く含まれている。

『終戦日記』では、終戦から15年後、日記の公刊が決まって書かれた「まえがき」に作家の考えがよく出ていた。

 終戦の年の「半年間の混乱の中で、わたしはベルリンからチロルを経由してバイエルン州に居を移した。国は破壊されたアリ塚同然で、わたしは右往左往する数百万のアリの一匹だった。わたしは日記をつけるアリとなった。見聞きしたことをその都度メモした」

そのメモは「すべてわたしが自分で体験したことだ。考えるアリの視点から観察したものだ」というくだりに、強く同感した。新聞記者も似たところがある。現役のころ、自分に言い聞かせていたのは「新聞記者は考える足であれ」だった

戦争に翻弄されながらも、「考えるアリ」の目で軍部の動きや庶民の姿が記録される。「大年代記では個人など探しようがない」。が、日記からは裸眼でも個人が見えてくる。親衛隊を含めた人間の節操のなさや弱さも書き留めている。

「良心はまわれ右が可能だ。進んで悪人になりたい者などいるだろうか。いつだってそうだ。なにをめざしていても、支配される側は支配する側のモラルと魂の平和条約を結ぶ。たとえそのモラルがどんなに不道徳なものであっても」

 ロシアがウクライナを侵攻してすでに5カ月近くたつ。戦争の悲惨さ・愚劣さは今も変わらない。『終戦日記』や『暗黒日記』にウクライナの被災者・避難民の姿が重なる。 

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