「スパイだった建築家」をもっと知りたくなって、総合図書館から秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』(新潮社、2009年)=写真=と、『自伝アントニン・レーモンド』(鹿島出版会、2007年)を借りてきた。
戦前、ライトが帝国ホテルを建築したとき、弟子のレーモンドも来日した。レーモンドはそのまま日本にとどまり、設計事務所を開く。
太平洋戦争前には帰米し、やがて軍の要請で焼夷弾の効果を検証するため、砂漠に日本家屋を再現した。
そこまでは、前にレーモンドについて調べて分かっていた。彼はさらにアメリカの諜報部員だったという。
まずは焼夷弾と日本家屋について――。『ワシントンハイツ』は序章・終章を含めて18章からなる。第2章「ある建築家の功罪と苦悩」でレーモンドを取り上げている。『自伝』を引用している部分は、手元の『自伝』と照らし合わせた。
「私と妻にとって、日本を負かす意味をもつ道具をつくることは、容易な課題ではなかった。日本への私の愛情にもかかわらず、この戦争を最も早く終結させる方法は、ドイツと日本を可能な限り早く、しかも効率的に敗北させることだという結論に達した」
そんな考えに基づいて、レーモンドは日本の木造長屋によく似た建物をデザインした。布団、座布団その他も含めて、完全な日本家屋に見えるような状態に仕上げられた。畳は、海軍がハワイまで出向いて日系人家庭などから調達したという。
彼の裏の顔は――。秋尾さんがアメリカの公開史料を使って明らかにした。CIAの前身、OSSの文書の中にレーモンドの素顔が見える書類があった。
「戦時中は喜んで今のビジネスを投げうって軍に戻る」として、「スイスに派遣してくれれば、チェコ人の反ドイツ地下運動への支持と接触を組織して指揮する」ことを申告している。
また、日本へ派遣されれば、「反国軍勢力と軍の間に摩擦を大きくさせて内部崩壊を促すために、日本における彼のリベラルな知人たちとの接触を復活させる」としている。
戦後3年たって、レーモンドは再来日する。「今度は日本の再建に手を貸したいというのが本人の言い分である」と、秋尾さんは冷ややかに言う。
アメリカ国内には、「原爆は戦争を終結させアメリカ人の命を救った救世主」という「原爆神話」が根強くある。それと同じ論法で、レーモンドは焼夷弾開発に協力した。
以後、日本では数々の建築物を手がける。その一つとして、確証はつかんでいないのだが(『自伝』にも出てこない)、いわきの聖ミカエル幼稚園がある。教会の礼拝堂を園舎に利用していた。
教会兼幼稚園はライトの弟子が設計した、教会は昭和34(1959)年にできた、という話から、設計者はレーモンドだろうと推定してブログに書いた。
今はレーモンドでなければいいがと思いつつ、やはりレーモンドだろうという確証の方が一段と強くなった。
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