2022年7月17日日曜日

海水浴場の今・昔

いわき市の海水浴場がきのう(7月16日)、3年ぶりにオープンした。海開きをしたのは、南から勿来、薄磯、四倉、久之浜・波立の4海水浴場だ。

合磯(かっつぉ)は防潮堤の設置と震災による地盤沈下などで砂浜の面積が大幅に減少し、平成30(2018)年に廃止された。

小浜、永崎、豊間、新舞子ビーチも、地元の実行委員会の体制が整えられないことから、今年(2022年)、廃止された。

俗に「いわき七浜」という。浜が「七つ」あるというより、「たくさん」あるという意味で「七」が使われる。いわきにはピーク時、いわきサンマリーナを含めて10の海水浴場があった。それが、東日本大震災、その後の新型コロナウイルス感染問題の影響を受けて、4カ所にまで縮小した。

折から、いわき総合図書館で今年度前期の常設展「いわき七浜の海水浴場」が開かれている=写真(パンフレット)。

海へ行く機会が減った今、いわきの海水浴場で経験した少年時代の記憶が、寄せては引く波のように現れる。

これは前にも書いたことだ。私が小学生になるかならないころ、つまりざっと65年前、昭和30(1955)年前後の小名浜はまだ松林があって、砂浜が湾曲しながら広がっていた。

 叔父が日本水素(現日本化成)に勤めていた。市街地の西郊、藤原川に近い弁別に社宅があった。小学校入学前から低学年生のころまで、阿武隈の山里から祖母に連れられてよく泊まりに行った。

従妹に連れられて、社宅の前の海で生まれて初めて海水浴をした。寄せては返す波にめまいを感じて砂浜にしゃがみこんだ。従妹たちは「キャッ、キャッ」といいながら、波と戯れていた。

そのあとの海の記憶は永崎海水浴場だ。高専の何年生だったか、夏休みに実習があった。弁別の叔父の社宅から、小名浜に住む同級生と2人で江名のT製作所に通い、漁船の焼玉エンジンか何かを製図した。

常設展のパンフレットによれば、昭和35(1960)年ごろ、小名浜海水浴場が廃止されたのに伴い、旧磐城市観光協会が永崎海水浴場を積極的にPRした。

実習の帰りに永崎へ寄ったのは、それから数年後だったか。弁別と違って、砂浜が見えないくらい人でごった返していた。

いわき市の「いわきの今むがし」によると、福島県内の中通りから臨時列車「くろしお号」が乗り換えなしで臨海鉄道の永崎駅まで海水浴客を運んだ。

最盛期の昭和38(1963)年夏には、泉―江名で一日に22本のダイヤが組まれたという。ごった返していたわけだ。

 いわきの海水浴場は、東日本大震災の年に一時閉鎖された。勿来は翌年、四倉は翌々年、薄磯は6年後、そして令和元(2019)年、9年ぶりに久之浜・波立海水浴場が再開された。それからまた、コロナ問題が起きる。

   3・11以来、海の背後地は激変した。海へ行くたびに記憶との摩擦がおきる。そんなとまどいを抱えている人間も少なくないだろう。 

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