2019年5月12日日曜日

「平成のいわき」展

  夕刊いわき民報(タブロイド判)による「平成のいわき」展が、鹿島ショッピングセンター「エブリア」で開かれている。5月19日まで。古巣の新聞なので、いわき市南部へ遠出した帰り、エブリアへ寄って会場をのぞいた。
 昭和から平成へと切り替わるとき、編集する側に身をおいていた。昭和最後の紙面と平成最初の紙面はよく覚えている=写真上1。

昭和天皇が亡くなった日=昭和64(1989)年1月7日=には、通常12~16ページ建てを、広告をはずして4ページにした。どのメディアもそうだが、「Xデー」に備えて記事をストックしていた。翌8日=平成元(1989)年1月8日=の1面は、この日病院で産声を上げた赤ちゃんや、改元で急に忙しくなった印章店、レンタルビデオ店などを紹介している。

前回は死去による“重苦しい改元”だったが、今回は退位による“明るい改元”だ。国民にもマスメディアにも奉祝ムードが漂う。この「平成といわき」展も同じ文脈だが、しかし、福島県は8年前に東日本大震災と原発事故の災禍に遭っている。「平成のいわき」を考えると、どうしても真っ先に「平成23(2011)年3月11日」が思い浮かぶ。 
3・11関連特集コーナーがあった。こちらはすべて後輩たちの仕事だ。記者が選んだ「お気に入りの1枚」コーナーの1枚に足が止まった=写真上2。お気に入りというよりは、生死にかかわる「忘れられない1枚」だろう。

地震発生直後から小名浜港の様子を取材していた記者に、近くの福島県港湾建設事務所の職員から声がかかる。「そこにいたら死ぬぞ」。記者は同庁舎に避難する。

「その後も不安を押し殺しながら津波に飲みこまれる小名浜港背後地の情景を撮影し続けて1時間が経ち、逃げることもできず途方に暮れる同事務所の職員とともに、津波に飲まれた臨港鉄道付近を撮影した1枚。3階建ての南三陸町の防災対策庁舎が飲みこまれたとの防災無線が入り、私を含め多くが死を意識した」

 記者はこのとき、マイカーを流失した。別の記者も別の場所で同じようにマイカーを失った。<生きていてよかった>。震災直後にマイカー流失の話が伝わってきて、そう思った。8年たった今、当時の様子を振り返る文章に接して、またそう思った。いのちを持っていかれなくてよかった。

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