私が立ち会うと、ダンシャリは進まない。「レジュメは5部だけ残すから」。“物置”化した2階を、人が横になれるところまで片付けるには、カミサンの判断にまかせるしかない。
「こんなものがあったよ」。ある日、カミサンがスケッチブックを持って降りてきた。今はスペインに住む画家阿部幸洋(いわき市平出身)の、おそらく20歳ごろのものだ。
昭和40年代後半から10年間、いわき市平に「草野美術ホール」という画廊があった。絵をかく人間に安く、ときには出世払いで発表の場を提供した。やがて、立て続けに個展・グループ展が開かれるようになった。そこで昭和47(1972)年、今はスペインに住む画家阿部幸洋を取材した。私は23歳、彼は20歳だった。
スケッチブックが20歳のころのものだと推定できるわけは――。昭和46(1971)年9月22日、いわき民報で若者向けの欄「オー!ヤング」がスタートした。私は入社半年だったが、報道部長に直訴すると、「やってみろ」となった。その題字を頼んだらしい。三つか四つ、それらしいデザインがあった。しかし、翌47年の同欄を図書館のホームページで確かめたが、使った形跡はない。
スケッチブックには水彩画や素描が描かれていた=写真。メモも差し込まれていた。そのメモの一部。
「俺は何だ。絵かきだ
びんぼうしていても
米を買う金が
なくても 俺は絵かきだ」
この言葉は 誰かが言っていた
誰かのことばに託して、自分の心情を吐露したのだろう。やがて、結婚と同時にスペインへ渡り、今はその地に眠る奥さんに支えられて、ただひたすら絵を描き続ける暮らしに入る。
彼と知り合ったころ、夜になると平の街を飲み歩いた。真夜中、私のアパートに泊まった晩、すすり泣く声で目が覚めた。「描けない」。初めて見る彼の姿から、逆に絵画への思いの深さを知った。半世紀近く前のメモに触発されて、そんなことも思い出した。
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