緑川=写真(上遠野良夫撮影)=は、いわきでは唯一無二の前衛陶芸作家だった。京都で前衛グループ・走泥社の同人となり、祖母の出身地のいわきに工房を構えた。以後、いわきの陶芸、美術界にさまざまな影響を与えた。現代美術を収集するいわき市立美術館の建設にあたっては、画家の故松田松雄とともに市民運動の先頭に立った。
初日は午後5時から、エリコーナでオープニングパーティーが開かれる(会費2000円)。緑川と生前、交流のあった人、あるいは興味のある人はぜひご参加を。飲み仲間だった縁で実行委に加わり、求められて次のような文章を書いた。
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きっかけは、2017年秋に開かれた「まちなかアートフェスティバル玄玄天」のトークイベント、「いわきの現代美術の系譜~緑川宏樹編~」だったように思う。
前年秋、同フェスティバルでいわき市立美術館の建設へとつながった市民団体「いわき市民ギャラリー」の活動と、それを牽引した画家松田松雄の人と作品を振り返った。
陶芸家緑川宏樹(1938―2010年)もまた牽引役の一人だった。トークイベントでは久しぶりに彼の作品と向き合った。
いわきの現代美術の根源を探ると、市立美術館→市民ギャラリー→草野美術ホールにたどりつく。同ホールでは昭和40年代半ばから10年ほど、立て続けに個展・グループ展が開かれた。画家や書家、新聞記者たちの出入りが絶えなかった。
これに途中から陶芸家の緑川卓志・宏樹兄弟が加わる。祖母の出身地であるいわきの小川町に卓志が窯を築き、少し遅れて宏樹が平に移り住んだ。同ホールはさらに異能・異才が交差する場になった。
陶芸家とは茶碗をつくる職人――当時、そのくらいの認識しかなかった市民にとって、日用雑器と無縁の“紙ヒコーキ”などを手がける宏樹の仕事は衝撃的だった。陶芸と陶芸家の概念が解きほぐされ、広がり、深まった。結果、陶芸を趣味にする市民が増えた。
宏樹はその後発症し、亡くなる。しかし、東日本大震災を機に、「まちなかアートフェスティバル玄玄天」が開かれ、あらためて彼の作品の前衛性が見直されるようになった。
緑川宏樹がまた近づいてきた。いわきの現代美術黎明期の“熱”を若い世代に伝えたい――という思いもわいてきた。有志が実行委員会を組織し、彼の回顧展を開くことになった理由のひとつがここにある。
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