前衛陶芸の「緑川宏樹回顧展/風は結晶する」が8月25日まで、いわき市平のギャラリー界隈とアートスペースエリコーナで開かれている=写真下(エリコーナ)。
初日(8月18日)の日曜日午後5時から、オープニングパーティーがエリコーナで開かれた。いわき陶芸協会、緑川を支援してきた陶友会関係者、緑川と親交のあった美術家など、ざっと40人が出席した。
同展を主催した実行委員会のメンバー11人の半数は、元草野美術ホールの“同窓生”だ。
昭和40年代、いわきの美術シーンをリードした同ホールで、私は画家松田松雄や山野辺日出男と出会った。今はスペインにいる画家阿部幸洋を知ったのは、彼が20歳を過ぎたころ。やがて陶芸の緑川卓志・宏樹兄弟とも酒を酌み交わすようになった。そのネットワークの中でいわき市立美術館建設請願へと市民運動が始まる。松田と緑川(宏)が運動を牽引した。
主催者あいさつのあと、緑川の長女・志保さん(横浜)、いや、「さん」ではよそよそしい、志保ちゃんが謝辞を述べた。緑川宏樹といえば「紙ヒコーキ」。「48年前、母が紙飛行機をつくっていたのを父が見て、発想した」という。なるほど、日常のひとこまから前衛作品が生まれたのか。
パーティーが始まる1時間前、エリコーナのドアを開けると、志保ちゃんが駆け寄ってきて、「ごぶさたしてます、志保です」。「おおっ」。こちらも外見は変貌したが、志保ちゃんも大人になった。「私、もう50歳になります」。これには驚いた。
記憶にはっきり刻まれているのは、志保ちゃんが小学校低学年のころだ。夏になると、松田一家、緑川一家、その他合わせて7家族くらいがわが家に集まって「カツオパーティー」を楽しんだ。大人はカツオの刺し身をつついて酒を飲み、志保ちゃんら子どもたちは庭で花火をやり、それにあきると茶の間の白いふすまに親公認の落書きをしたりして遊んだ。志保ちゃんが50歳なら、ほかの子どもたちも40代半ばになっている。
親は親。子どもたちもまた、それぞれの道を歩んでいる。たとえば、松田の長女・文(あや)ちゃん。今は千葉県いすみ市に住み、地域おこし協力隊の仕事をしながら、「アヤトピア」の名でシンガー・ソング・ライターの活動を続けている。最近、初のアルバムを出した。朝日新聞の千葉県版に記事が載った。その記事が月遅れ盆明けの17日、福島県版に転載された=写真右。
パーティー会場で母親、つまり松田の奥さんがマイクを向けられ、文ちゃんの音楽活動にも触れた。参会者に十分伝わったとは言い難かったので、フェイスブックでニュースに触れていた私が補足説明をした。
文ちゃんは平成27(2015)年、未刊だった父親のエッセー集『四角との対話』を入力し、同年10~11月、岩手県立美術館(盛岡市)で開かれた松田の回顧展に合わせて発刊した。
『四角との対話』は昭和54(1979)年、夕刊いわき民報に同題で1年間、週1回連載された。私が彼と対話しながら、原稿の事前校正をした。文ちゃんによって電子書籍化(紙本も発行)された際にも校正を頼まれた。「あとがき」と書籍PR用のコピーも書いた。そんなことも補足説明の中で触れた。
松田自身が書籍化を試み、印刷所に入稿しながら、いつの間にか作業が中断した。その後、闘病、死へと至り、単行本は幻になったと思っていたら、文ちゃんが遺志を引き継いだ。私は、胸のつかえがとれた思いがした。
パーティーでは、草野美術ホールの“同窓生”と旧交をあたためながらも、次の世代へと作品が引き継がれていく時期がきた、生身の松田・緑川を知っている世代から、生身の作家は知らなくとも、作品を通じて松田・緑川を発見する――回顧展がそういう契機になればいい、という思いを強くした。志保ちゃんに会い、文ちゃんの話をしたことが大きい。
それと、もう一つ。スペインにいる阿部の妻・故すみえちゃんがかわいがっていた近所の子ども(兄弟)がいる。兄のラサロ(36)は、「アート&デザイン」の仕事をしている。「3D」で大きな倉庫のデザインなども手掛ける。すみえちゃんが亡くなって間もない平成22(2010)年2月には、阿部の個展に合わせて来日し、わが家へも顔を出した。
ラサロの弟のダニエル(32)はすみえちゃんに日本語を習った。スペインの大学で教えている。妻のラサレット(28)とともに来日し、日本各地を巡ったあと、月遅れ盆の15日からわが家(実際には道路向かいの故伯父の家)にホームステイをしている。ダニエルも、阿部のつながりでいえば「次の世代」の人間だ。若い力を感じるなかでの回顧展オープニングパーティーになった。
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