ホームステイ4日目の8月18日、日曜日。「キッズミュージアム2019in伝承郷」が開かれた。カミサンは伝承郷の事業懇談会委員をしている。毎年、ボランティアスタッフとしてこのイベントに参加する。今年(2019年)はスタッフではなく、ダニエル夫妻を案内する側に回った。
ダニエルと私は勧められて(「的を当てないとかき氷が食べられない」というので)、園内の広場で縄文人になって弓を射った。当たらなかったが、ごほうびのかき氷を受け取り、かやぶき屋根の民家に移動して4人で食べた。民家だけでもちょっと前まであった日本の農村の暮らしの一端を体験できたはずだ。
ひととおり園内を見て回ったあとは、海へ、塩屋埼灯台へ――。大津波の被害に遭った豊間を通り、薄磯へ出て、高い防波堤と防災緑地の続く現在の姿を見せた。
昼にはまだ早い。カミサンが「どこか四倉あたりでコーヒーでも」という。ドライブを兼ねて県道小名浜四倉線を北上した。コーヒーを飲ませる店といっても、なかなか思い浮かばない。四倉の内陸部、山麓線(県道いわき浪江線)沿いの店は遠いし……。
そんなことを頭の片隅で反芻しているうちに、藤間から下大越へ抜けた。スペインに住んでいる画家の実家が田んぼの中にある。それを思い出した瞬間、ハンドルを切ってわき道へ入った。「ユキヒロの家に行く」というと、ダニエルが「ワオッ」と反応した。よほどうれしかったのだろう。
家の前に着く。カミサンが車を降りて庭へ回り、家の中にいた母親にあいさつする。玄関が開く。私とダニエル夫妻の顔を見るなり、母親は「あららら。上がって、上がって!」。ダニエルらを促して家の中に入る。まずは仏壇に焼香する。すみえちゃんの写真がある。ダニエルたちもカミサンに教えられて線香をあげた。
画家の母とは、すみえちゃんの新盆以来、9年ぶりの対面だ。この間に東日本大震災があった。90歳になったという。足は少し衰えたが、頭はシャープなままだ。昔のことも今のこともよく覚えている。「どうしてた?」というから、「区長をやっている」とかなんとかいう。「それは大変だ」
スペインの画家とは時折、国際電話で連絡を取り合っているようだ。「ラサロの弟が来てるっては、聞いてたんだ」。それで連れて来た、ドライブ中に思い出して――とは、むろんいわない。
ダニエルの兄の話になった。すみえちゃんが亡くなった翌年2月、画家とともにラサロが来日した。わが家へも遊びに来た。「ラサロは1カ月もウチにいたんだよ」。母親はそういって、離れを案内した。母屋並みにしっかりした2階建ての家である。アトリエは2階、ラサロが泊まった寝室は1階にある。母親にいわれて遠慮なく2階に上がり、阿部の日本でのアトリエを見学した。
あとですみえちゃんの最期の様子を、拙ブログで確かめる。2009年9月25日、友達と近くのバルで茶飲み話をしていたところ、めまいに襲われ、救急車で病院に運ばれた。意識不明のままトレドの大きな病院へ転送されたが、5日後の30日昼ごろ(現地時間)、息を引き取った。享年53。生前、臓器提供を決めていたので、心臓と肝臓がそれぞれ、スペインの市民に提供された。
すみえちゃんは阿部の妻だけでなく、マネジャー・通訳・運転手でもあった。毎年、個展を開くために帰国すると、夫婦でわが家へやって来た。今はトメジョーソの墓地に眠る。
すみえちゃんは阿部の妻だけでなく、マネジャー・通訳・運転手でもあった。毎年、個展を開くために帰国すると、夫婦でわが家へやって来た。今はトメジョーソの墓地に眠る。
ダニエルはそのへんの経緯を知っている。なんといっても、日本語の先生だったのだから。画家の母親は別れるとき、ダニエルに「ユキヒロをよろしくね」といった。やはり、何歳になっても母親は母親だ。私ら夫婦にとっても、胸のつかえがとれるような母親との再会になった。
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