2019年8月23日金曜日

車のガソリンが4分の1に

 東北地方太平洋沖地震が発生した平成23(2011)年3月11日。車のガソリンは、燃料計で見る限り4分の1もなかった。
  翌12日午後3時36分、住まいから40キロ北の東電福島第一原発で1号機の建屋が爆発する。4分の1のガソリンでどこまで避難できるか。悶々としているうちに14日午前11時1分、今度は3号機の建屋が爆発する。

15日昼過ぎ、カミサンの実家に寄り、義弟が買っておいた携帯タンクのガソリンをもらって補給し、息子一家、義妹母娘と2台の車で避難を始めた。国道49号を中通りへと向かい、同4号へ出て南下し、真夜中、白河市の奥、標高1000メートルほどの西郷村「国立那須甲子青少年自然の家」に着いた。スクリーニングを受けた白河市の県南保健所の紹介だった。

 高原の施設にのべ9日滞在した。23日に帰宅したが、帰りもまた燃料計を見ながらの運転になった。ガソリンスタンドではまだ補給が難しかった。

当時のブログから帰路の様子を振り返る。まず、車載の取扱説明書をじっくり読む。ガソリンは満タンで42リットル。燃料計は目盛りの数から一刻み当たり約1.8リットルの計算になる。車はフィット。「リッター20キロ」としてガソリン残量7.2リットル、140キロ超は走行が可能。いわきへの最短コース、国道289号を利用すればガス欠をせずに帰宅できる、とみて、山を下りた。

 ただひたすら南東方向のいわき市へ――。西郷村~白河市~棚倉町~鮫川村と進んだところで、燃料計のスタンドマーク(残量警告灯)が点灯した。警告灯は残り7リットル前後で点灯する、と取扱説明書にある。ガソリンは、思っていたよりは多くあったことになる。そのおかげで、正午すぎにはなんとかわが家へ帰還することができた。

これほどガソリンに悩まされたときはない。以後、この避難行が“教訓”になって、燃料計の針が半分を指すと、すぐ満タンにする癖がついた。

ところが、である。月遅れ盆をはさんだ今年(2019年)の8月中旬は、遠出する機会が多かった。日曜日に山里巡りをした。お盆に入ると新盆回りをした。わが家にホームステイしているスペイン人夫妻を、暮らしの伝承郷や豊間・薄磯の海に連れて行った。夏井川渓谷の隠居へキュウリを摘みに出かけた――。で、きのう(8月22日)、燃料計を見たら、半分を割り込んで4分の1しかガソリンがない=写真。あわてて行きつけのスタンドへ駆けつけた。

燃料計の針が半分を指しているときには、まだ平穏でいられる。4分の1しかない!と気づいたとたん、8年5カ月前の記憶がよみがえってきて(いや、襲ってきて、といった方が正確だ)、心穏やかではいられなかった。息苦しくなるほどではないが、落ち着かない。意識の底には、事故を起こした原発への不安がまだしこっている。

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