24年前、当時の区長さんのはからいで家々を回り、“新入り”のあいさつをした。週末だけの半住民だが、隣組にも入った。その区長さんが亡くなり、新盆を迎えた。きのう(8月14日)、夏井川渓谷=写真=の自宅を訪ねて焼香し、遺族と故人の思い出話にふけった。
渓谷の小集落・牛小川に義父が建てた隠居がある。阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件がおきた年の5月末、義父から隠居の管理を引き受けた。週休2日とは縁遠い職場、仕事を終えた土曜日の夕方、隠居に直行して泊まり、日曜日にはキノコを探して森を巡った。そのうち、庭を開墾して野菜の栽培を始めた。
区長さんの家で酒盛りをし、飲み過ぎて泊まった翌朝、ご飯をごちそうになったことがある。ジャガイモとネギの味噌汁が出た。ん、うまい! 子どものころ、田村郡常葉町(現田村市常葉町)の実家で食べていたネギと同じ味だ。甘くて軟らかい。聞けば「三春ネギ」だという。
牛小川の集落では、おのおの自家消費のために自分で種を採って三春ネギを栽培している。いわゆる地ネギ(昔野菜)である。
この一杯の味噌汁から、ネギの勉強が始まった。スーパーで売っているネギが硬いためにへきえきしていたところへ、子どものころ食べ慣れていた三春ネギに“再会”した。「自産自消」を試みるチャンスだ。まずは奥さんに苗を譲ってもらい、三春ネギの栽培を始めた。
ネギ坊主から種も採ったが、保存の仕方が悪くて2年続けて失敗した。秋の種まき時期まで冷蔵庫に保管しておく、と知ったのは3年目。これでやっと種を発芽させることができた。以後は、原発震災がおきても、「種を切らすわけにはいかない」と栽培を続けている。
区長さんも奥さんも、ネギ栽培の大恩人である。麦茶を飲んだり、ゼンマイや漬物を食べたりしながら、ネギの話になった。今の「いわきねぎ」を栽培したこともあるそうだが、太くて硬い。やはり、食味のいい三春ネギに戻った、という点では、私と同じだ。
そのうち、区長さんと水力発電所で一緒だった人が、65歳の息子さんとやって来た。息子さんは、施主とは幼なじみだ。顔が隠れるくらいに大きいマツタケを手にした写真があるという。施主も持っている、と応じた。小学校に上がる前のことらしい。「自分でマツタケを採ってきたのかな」と施主。「まさか」と私。
すると、区長さんの元同僚が、若いとき、区長さんと一緒に、前の山、後ろの山、あそこの山、あっちの山……と、マツタケ採りに歩き回った話をした。渓谷の山はどこでもマツタケが採れた、しあわせな時代だった。今は、大きな松の木は松くい虫にやられてあらかた枯れた。マツタケが共生するような若い松は数えるほどしかない。
私が区長さんを知って今年で丸24年、区長さんと元同僚の間にはそれこそ50年、60年という長い時間の蓄積がある。私は三春ネギ、区長さんの元同僚はマツタケ。それぞれの渓谷とのかかわり、原点を確かめるような新盆回りになった。
0 件のコメント:
コメントを投稿