2019年8月3日土曜日

青田を渡って来る風

 網戸越しに青田が見える=写真下1。ときおり、風が入り込む。青田を渡って来る風に、若いころ、この土地に住んで、この風を受けていたことを思い出す。
 東北南部の梅雨明けが発表された7月30日、平・下平窪公民館で平窪・草野間連絡道路整備促進期成同盟会の総会が開かれた。平窪と草野の間に神谷がある。期成同盟会には3地区の26行政区が加盟している。

 いわき駅を中心とした平市街の北方、丘陵のすそ野に水田が広がる。その間を連絡道路(市道)が伸びている。東日本大震災後は、基幹道路の国道6号を避けて“抜け道”に利用する車が増えた。1カ所だけ拡幅の進まないところがある。改良の見通しは立っていない(神谷の住人である私は毎週、夏井川渓谷の隠居へ行くのに、この連絡道路を利用する。狭隘な区間は朝晩、混雑する)。

 ま、それはさておき――。昭和48(1973)年から数年間、下平窪の市営住宅=庭付きのおんぼろ木造平屋に住んでいた。子供が2人生まれた。日曜日には親子で近くの田んぼのあぜ道を散歩した。山すその小川江筋や神社、安養寺=写真下2=の方まで足を延ばすこともあった。
 夜9時になって子どもが眠らないと、「安養寺の裏山からナマハゲが現れて、『起きてる子はいねぇがー』……」とやったものだ。

 安養寺の住職はカミサンの中学校の同級生。いわき地域学會の会員でもある。それだけではない。寺は、開拓農民で詩人三野混沌(吉野義也=1894-1970年))の実家の菩提寺でもある。混沌・せい(1899-1977年)夫妻の次女・梨花は、この実家の墓に埋葬された。

青田を渡って来る風を受けながら、せいの作品集『洟をたらした神』に収められている「梨花」の野辺送りの様子も思い出した。

昭和5(1930)年12月30日、生まれて9カ月余の梨花が肺炎で息を引き取った。なきがらはその日のうちに小さな棺におさめられ、日が変わった真夜中(大みそかの未明)、安養寺の墓に葬られた。

「この山の上で生まれ育ち病み死んだお前は、低い軒を離れていちご畑の細みちを、あまねき月光と黒い菊竹山の松風とに送られて、とぼとぼと平窪の菩提寺さして遠のいて行った。ちらちら揺れる提灯の灯のすっかり見えなくなるまで、私は戸口にたってお前に詫びつづけながら身を凍らせて見送った」

 提灯が頼りの一行は菊竹山からどこをどう通って安養寺へ着いたのか。父親の実家(下平窪字曲田)からは、丘のふもとへ向かい、江筋沿いに寺へ進むルートが一番近い。その道を利用したのかもしれない。青田の先にせり出した丘を眺めながら、そんなことを思いめぐらした。

このごろは、『洟をたらした神』に関係する場所や事象に出合うと、つい注釈的な目で見てしまう。私たちが住んでいたころは、下平窪公民館の建物はなかった。新興の住宅も少なかった。平浄水場は江筋のそばにできたばかりだった。

――日曜日。夕方の散歩。西の空が赤く燃えあがっていた。三つか四つだった長男が、もっと広かったこの青田のどこかで叫んだ。「父ちゃん、空が大火事だ!」。今もその夕焼け空がありありと思い浮かぶ。

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