薄磯海水浴場の北、賽の河原近くの波打ち際に横長の岩塊が露出している=写真。「護摩(麻)磯」ということを、最近知った。すると、場所がわからずにもやもやしていた昔話の霧が晴れ、ある神社の「オシオトリ」の流れがはっきりした。
昔の祭礼のことが知りたくて、『岩崎敏夫著作集4 村の生活聞き書』(名著出版、1991年)を読んでいたときのこと――。いわきでも、浜、あるいは浜に近い神社の祭礼では「浜下り」が行われた。「オシオトリ」という。今も行われているかどうかはわからない(文中に出てくる大国魂=大國魂神社は継続している)。
「大国魂神社は豊間の磯で、八剣神社は薄磯で、両二荒神社と白山神社は護麻磯で、佐麻久嶺神社は中屋の磯で、薄井神社は明神磯で行う」。岩崎が調査したのは戦中の昭和18(1943)~19年。豊間や薄磯はともかく、護摩磯や中屋の磯、明神磯(各地にある)となると、お手上げだ。口承地名なのだろうが、どこにあるのか、さっぱりわからない。
思いあぐねていたら、たまたま、若い知人がフェイスブックに薄磯海岸の岩塊=護摩磯の写真をアップした。塩屋埼灯台点灯120年記念イベントをPRするなかで取り上げた。彼に問い合わせて、護摩磯がやっと現実の存在になった。
日照不足と多湿に終止符を打った先の日曜日(7月28日)、薄磯海水浴場を訪ね、護摩磯をデジカメに収めて、近くの喫茶店「サーフィン」で一服した。
ママさんに写真を見せると、カウンターでだべっていた地元の女性を紹介してくれた。護摩磯に間違いない、という。なぜ護摩磯というのか、ダンナさんに聞いたことがあるそうだ。「岩の上で護摩でもたいたのか」。ダンナさんは言下に否定した。
東日本大震災では地盤沈下が起き、護摩磯がだいぶ水に沈んだ、今は戻りつつある、ともいう。大地の復元力がはたらいているのだろう。
昔話には、護摩を焚いてうんぬん、という話が残っている。佐藤孝徳著『昔あったんだっち――磐城七浜昔ばなし300話』(いわき地域学會、1987年)の第28話「護摩磯」。八幡太郎義家が蝦夷征伐のため薄磯の浜までやって来たとき、家来2人が熱病にかかって死んだ。義家は真言宗の坊さんに頼み、浜で護摩を焚いて拝んでもらった。それから、護摩をたいたところを「護摩磯」と呼ぶようになった。
『昔あったんだっち』の文章整理と校正を担当した。それが精いっぱいで、護摩磯はどこ、江名の明神磯はどこ、といった注釈をつくるゆとりはなかった。巻末に2ページ余の「用語の説明」が付されているだけだ。
発刊から32年たった今、単に「読者」として、注釈があるとより理解が深まるのでは、といった思いになった。若い人が興味を持ってやってくれると、いわきの民俗学的な知層は厚みを増すのだが。
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