2019年8月1日木曜日

高木敏子『ラストメッセージ』

 高木敏子さん(1932年~)は、ロングセラーの児童文学作品『ガラスのうさぎ』の作者。作品のなかに、常磐線の列車でたまたま同席し、一夜の宿と食事の世話をしてくれた「勿来のおばさん」が登場する。
高木さんはそのとき、13歳。終戦直後の昭和21(1946)年2月末、寄留していた宮城県・秋保の親戚の家を飛び出し、焼け野原の東京へ戻る途中だった。

 それから32年後の同53(1978)年9月、『ガラスのうさぎ』を出版したばかりの高木さんから、いわき市役所に尋ね人の手紙が届いた。当時、私は30歳。いわき民報の市役所担当記者だった。広報広聴課長から耳うちされて記事にした。他社も何紙か報じた。

 記事に高木さんの手紙の一部が載っている。「勿来の親切な女の方に、ひと晩大変お世話になりました。今でもその時のご恩、有り難さは忘れることが出来ません。しかし、残念なことにお名前がわかりません。現在六十歳から七十歳位の方だと存じます。是非お目にかかり形ばかり御礼の印を――との思いがつのります」

 幸い、勿来のおばさんが判明し(77歳になっていた)、高木さんは翌54年1月4日、再会を果たす。いわき民報によると、広報広聴課長が勿来のおばさん宅へ高木さんを案内した。勿来のおばさんは「あの時、私は七人の子持ち。一人位増えてもという気持ちだった。大したことをしたわけではない」とこたえている。高木さんはピンクのちゃんちゃんこを贈り、勿来のおばさんはつきたての紅白のもちでもてなした。

 最近、若い人と『ガラスのうさぎ』の話になった。しばらくぶりに本を読み返し、新たに高木さんの『ラストメッセージ――ガラスのうさぎとともに生きて』(メディアパル、2007年)=写真=を図書館から借りて読んだ。ネットからインタビュー記事なども拾った。

 高木さんは東京大空襲で母と2人の妹を、疎開先の神奈川県二宮町の駅で、米軍の機銃掃射によって父を失った。『ガラスのうさぎ』は少女の過酷な戦争体験記、『ラストメッセージ』は、『ガラスのうさぎ』と合わせ鏡の半生記でもある。どちらにも平和への祈りがこもる。

4年前の朝日のインタビュー記事――。講演などで「全国各地をまわった30年間、ずっと訴えてきたことがあります。この国は油断していると『お手伝い戦争』をするようになる。だから、注意していないとだめですよ」。「戦争を起こそうとするのも、起こさせないようにするのも、人の心なのだということ」を、高木さんは強調する。

さて、高木さんは『ラストメッセージ』でこんなことも書いている。「命の終わりのときには、『ペール・ギュント』の中の『オーゼの死』か『夜明けの歌』、そのどちらかを流してもらいたいとわたしは思っています」

戦後、GHQの勧告で教育制度が6・3・3制や男女共学に変わった。しかし、切り替えの進まない学校もあった。男子校の第九中学校(現都立北園高校)でイプセンの劇詩「ペール・ギュント」をやったとき、先生からの依頼で第七高女(現都立小松川高校)の生徒だった高木さんが「純情な女」ソルベーグ役でゲスト出演し、グリーグ作曲の歌もうたった。弾むような青春の一コマが、最後のときには「オーゼの死」か「夜明けの歌」を、となったのだろう。

10年前、高専の同級生と還暦を記念して北欧を旅行した。ノルウェーではベルゲンにある「グリーグの家」を訪ね、フィヨルドを巡った。帰国してしばらくグリーグの「ペール・ギュント組曲」を聴いた。曲名は知らずとも耳なじみの曲が多かった。それもあって、高木さんの思いには親近感をもった。

戦争と平和について考える8月――。その最初の日に、ちょっと長い文章だが、高木さんの本を紹介しておきたかった。

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