2021年7月2日金曜日

市民が美術館をつくった

                              
 若いときは新聞切り抜きをすべてA4台紙に張った。カード化して項目ごとに分類し、フォルダーに入れて保管した。そのためのボックスもあった。

 昭和56(1981)年から3年間、いわき民報の勿来支局にいる間に、この習慣が途切れた。切り抜くだけ、カード化しても分類せずに積み上げるだけ。そのうえ、東日本大震災で本棚が倒れたり、中身がなだれをうったりした。それを片付け、ダンシャリをするなかで、なにがどこにあるかがわからなくなった。

 ときどき思い出したようにカミサンがダンシャリをする。「要るのと要らないのとを分けて」。あるいは「こういうものが出てきた」といって、古い切り抜きを持って来る。後者は「要る」ものが多いが、前者はあらかたくずかご行きになる。

 いわきの画家松田松雄(1937~2001年)が毎日新聞に寄稿した切り抜きが現れた=写真。昭和57年4月28日付の東北版「みちのく文化」で、「美術館づくり」と題して書いている。

 骨子は①いわき市では今、美術館建設が進んでいる②それは、行政サイドからの発想ではなく、あくまで市民運動の成果である③(現代美術を収蔵の柱にしているが)第1回収蔵品公開展を開いたら、なぜ「わかりにくい絵だけ買うのか」「わかる絵を買え」といった声で騒然となった――。

 しかし、と松田は書く。「いわき市が集めている作品は、強力な破壊力を持った現代美術であって、モダニズムの作品ではない。(略)芸術表現行為の新しい領域を開拓している、国際的な作家の作品なのである」

 つまりは「わかる」「わからない」を超えた新しい表現行為、それも歴史の試練に耐えられるような作品を収集していれば、やがて「国際的な規模の大コレクションになるのは相違ない」と松田はいう。

この認識は、昭和59年4月の開館から40年近くたった今、まさに現実のものになった。下世話な話だが、作家の評価が定まることで美術館の「含み資産」(収蔵作品の経済的価値)もかなりのものになっている。

 松田の論考にある「市民がつくった美術館」とは、松田自身がリーダーの一人だった市民団体「市民ギャラリー」による美術館建設運動と、国際的な美術展の誘致・開催を踏まえたものだけに、説得力がある。

 現代美術の収集を続けるためには、ではどうするか。松田は具体的に提言する。美術館関係者は市民と数多く接触し、理解と協力を求める姿勢を貫くべき、でないと市民が求めた美術館は遠いものになってしまう。今も、そして将来もこの課題は変わらない。

 切り抜きを読んで、美術家たちとの交流や美術館建設までの歴史、特に草野美術ホールのことを思い出していたら、これこそ偶然、いや天啓のように、美術館の若い学芸員から電話がかかってきた。

 秋に企画展が開かれる。美術館のコレクションとアーカイブ(美術館ができるまでの記録)の二本立てのようだ。そのなかで、前美術館長との対談を企画しているという。即座にOKした。前美術館長とは開館前からの「飲み兄弟」でもある。

たまたま39年ぶりに出てきた松田の切り抜き、「まちづくり」ならぬ「美術館づくり」の熱量を踏まえて、「あのころ」にタイムスリップし、楽しんでこようと思う。

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