こけし愛好家の間ではよく知られた存在らしい。佐藤誠(1901~70年)。こけし工人として修業を積み、戦前の平町(現いわき市平)で木工所を開業し、経営者としても成功した。しかし、戦争に翻弄され、負債を抱えて終戦を迎える。戦後は家族と離れ、ひとりこけし工人としてみちのくを放浪し、平泉で数奇な人生を終える。
再婚後に生まれた2人の息子のうち、長男(光良=1941~96年)は小説家になって作品集『父のこけし』(七月堂、1978年)を書き、『技の手紙』(みずち書房、1986年)を出す=写真。
次男(誠孝=1947年~)は父の死後、父を継いでこけし工人になった。『技の手紙』は、こけし界の名伯楽といわれた森亮介の、主に誠孝にあてた書簡を通じて、誠孝が独立するまでの経緯をつづる。
カミサンが本や雑誌、手紙・はがき類のダンシャリを続けている。そのなかから小説家のはがきが出てきた。35年前、勤めていた新聞に、『父のこけし』に続いて『技の手紙』の紹介記事を書いた。それへの礼状だった。
『父のこけし』所収の「皀角坂(さいかちざか)」は、高校を中退した「私」が孔版技術の専門学校に通い、孔版社に採用されるまでの心の動きを描く。「私」は中学生のころからガリ切りをやっていた。この作品を思い起こさせるきれいな書体だ。
若いころは、佐藤光良は佐藤光良として、吉野せいは吉野せいとして、バラバラに読んでいた。が、最近、せいの『洟をたらした神』の注釈づくりをしているせいか、昔の新聞記事や広告までが『洟神』関連の材料になる。
たとえば、表題と同じ「洟をたらした神」に出てくるヨーヨー。世界的に流行するのは昭和8(1933)年。それがいわき地方にも波及したことは、同年3月26日付の常磐毎日新聞でわかる。ヨーヨーの広告が載る。地元・平町十五町目30番地の「佐藤挽物製作所」がつくり、特約玩具店を通じて売り出した。「安値
一個五銭 十銭 二十銭」とある。
「コケシウィキ」によると、佐藤誠は昭和2(1927)年、平で開業、「佐藤木工所」の名で木製玩具の製造を始めた。事業は順調に発展し、同14年、木工所の東方にある佃町3番地に工場を新築、宮城県にも工場を設置した。
平の佃町3番地は、今は東部ガスの平事業所になっている。佐藤木工所と佐藤挽物製作所は同じだろう。昭和12(1937)年5月発行の「大・平町職業要覧明細図」に載る佐藤木工所の場所と、佐藤挽物製作所の住所が重なる。昭和5年時点では佐藤挽物製作所、その後、佐藤木工所となり、佃町に移転・新築するという歴史をたどったのではないだろうか。
佃町に移ったあと、太平洋戦争が始まる。すると、「父の工場も玩具製造を停止させられた。木馬、歩行器、木製の汽車などを作っていた工場は、かわりに日本陸海軍の指定工場とされて、軍属の監視のもとで軍需品の製造にあたるようになる」(「父のこけし」)。
結局は「工場閉鎖」に追い込まれるのだが、それは「時の軍部と独占企業による手痛い犠牲であったことはあきらか」(同)だった。
『洟をたらした神』にも、召集された息子に会いに行く話が出てくる。地方で暮らす人々の戦争の種々相――。『洟神』も『父のこけし』も合わせ鏡のようにつながった。
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