街へ行く。カミサンの用がすむ間、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の総合図書館で資料探しをした。小説でも詩でも随筆でもいい、いわき地方の昭和30年代の様子を知りたい――。
5階・いわき資料フロアの文学コーナーで背表紙を追っていたら、『ふるさと日記――大正時代のわらべ』=写真=という随筆集が目に留まった。
著者は片野孝平さん(故人)。本の末尾の略歴に小学校長、好間村教育長などとある。近所に住む知人のお父さんだった。会ったことはない。(略歴の最初に大正13年福島師範学校卒業とある。明治30年代末に生まれたようだ)
知人はカミサンと同じ職場にいた。私もそれで知り合った。半世紀近い付き合いになる。私たちが今の家に引っ越して、さらにつながりが深まった。拝み倒して、区の役員にもなってもらった。
吉野せいの『洟をたらした神』と時代的に重なるところがある。『洟神』の注釈づくりの参考になるかもしれない。昭和30年代から大正時代へと頭を切り替えて、『ふるさと日記』を借りて読んだ。『洟神』の内容と直接つながるものはなかった。が、大正時代の子どもの四季と暮らしが丹念に描かれていた。いわきではないどこか。それもあって、調べたことを含め、以下、四つほどを。
どこで生まれ育ったかは、字名レベルの地名しか出てこないのでわからなかった。ところが、今はネットがある。「入宝坂(いりほうざか)」という地名を検索すると、茨城県と接する久慈川流域の福島県南地方、矢祭町の山あいの小集落があらわれた。グーグルアースで地形も確かめた。
南へ流れる久慈川に沿ってJR水郡線と矢祭の町並みがのびる。東の山並みに向かって、町から国道349号が右折する。国道を利用して山を越えれば塙町という一番奥の山里だった。
宝坂という集落の奥=入(い)りにあるから入宝坂。バーチャルながら地理と地形が頭に入ると、文章が具体的に立ち上がってきた。
たとえば、遠足。「低学年は矢祭山、高学年は湯岐(ゆじまた)温泉か、川上発電所ときまっていた。学校を中心に矢祭山へは往復八キロ、湯岐へは十八キロはある」
いったん町へ出て、久慈川に沿って下ると、対岸に奇岩怪石の山が現れる。それが奥久慈県立自然公園矢祭山。湯岐温泉は逆に、東の山を越えた塙町の秘湯だ。川上発電所(塙町)も入宝坂の北方、山を越えた先にある。
私が小学生のときも、遠足はそうだった。自分の足で延々と歩き続けた。往復8キロはともかく、秘湯までの往復はきつそうだ。
果物にまつわる思い出はいくつになっても忘れられない。食べ方などは省略するが、桃・柿(干し柿・湯ざわし柿)・豆柿・巴旦杏(はたんきょう)・茱萸(ぐみ)・柘榴(ざくろ)・柚子(ゆず)などが登場する。私の子どものころより豊かだった感じがする。
もうひとつ。片野さんより7歳ほど年長のせいは独学で小学校の准教員検定に合格し、大正5(1916)年、現勿来二小の代用教員になった。
せいは先生という仕事に情熱を持てずに、2年ほどで辞職する。片野さんは自分が子どものころ通った分校の先生(代用教員)について、「教育学や学習法といった専門的教育を受けなかった未経験の教師」で「自己流の指導」だったと振り返っている。
せいはたぶんそこに気づいていたのではなかったか。片野さんの本を読み、ネットで調べを重ねているうちに、せいの内面のゆらぎが見えてきたような思いになった。
0 件のコメント:
コメントを投稿