2022年8月21日日曜日

樺太と台湾

               
 樺太(サハリン)に一度、台湾に二度、同級生と旅をして以来、なにかと両島のことが気になる。

 図書館に両島関係の新しい本が入れば、借りて読む。上野幹久編著『日本統治時代 ある校長の樺太・台湾旅日記』(梓書房、2022年)=写真=も、そうして読んだ。サブタイトルに「祖父の記録から読み解く『領土』と先人の努力」とある。

 編著者は福岡県の元小学校長。祖父もまた同県の小学校の校長を務めた。校長職にあった昭和6(1931)年8月、「樺太夏期大学~国境安別の実地踏査」に参加し、24日間の旅日記「樺太紀行」を大学ノートにつづった。41歳だった。

 さらに、4年後の同10(1935)年10~11月の21日間、台湾の研修視察旅行を続けて、やはり大学ノートに「台湾旅行記」と題して日記をつづった。

 樺太も台湾も昭和20(1945)年の終戦までは日本の領土だった。つまりは日本の「国内」。北緯50度に近い北の島と、北回帰線が通る南の島と、自然が違えば人間の暮らしも違う。

 樺太編にこんなくだりがある。8月12日、弟の住む東海岸の知取(マカロフ)に泊まる。夕方、「知取川に行けば、川を上るおびただしい樺太鱒(小型のサケ)と、釣り人たちの群れ。『引っ掛け』(ルアー)というのか、釣り方は針で引っ掛けて釣るやり方だ」

 私たちが樺太を訪れたのは平成28(2016)年8月2日だった。樺太には3泊し、そのあと対岸のシベリア大陸に渡って、ウラジオストクに2泊した。

 終戦当時、同級生の父親が知取の南隣、元泊(ボストチヌイ)の村長をしていた。そこを訪ねるのが主目的だった。

 日本語が堪能でサハリンの自然に詳しいガイドの提案で急きょ北上し、元泊村内の樫保(カシホ)川河口の岸辺に立った。

 ワゴン車の運転手がルアー釣りをしてみせた。たちまち樺太鱒がかかった。大きさは50センチ前後。この魚が川にひしめいていた。

知取川はそれから30キロほど北にある。時期的にもほぼ同じ。群れをなす樺太鱒の姿が目に浮かんだ

 台湾編では編著者の解説がやや物足りなかった。日清戦争のあと台湾を領有し、日本の植民地政策が始まる。児玉源太郎が第4代総督になり、後藤新平を民生長官に起用したあたりから成果が表れる。

有能な人材、たとえば新渡戸稲造(製糖など)、八田與一(灌漑事業)などを紹介しながらも、同時期に力を発揮した「台湾医学衛生の父」高木友枝(いわき出身)には言及していない。この点が残念だった。

同級生たちは、台湾へは三度出かけている。私も三度目の台湾行に参加するつもりでいたが、いわきでの行事がからんで断念した。

三度目は台湾の東海岸ルートだった。この本では、特に「タロコ渓谷」、そして北緯23度の北回帰線の記述に引かれた。先の台湾の旅では、北回帰線を意識することがなかったから。

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