カミサンが部屋を片付けるたびに、「こんな本があったよ」と持って来る。先日は、磐城高女33回生による学徒動員記『あすの盛りの花まちて』(1987年)=写真=が座卓に置いてあった。
出版されたばかりのころ、読んだ記憶がある。たぶん義母が手に入れたものだろう、という。義母は33回生よりは何年か先輩だ。
ロシアのウクライナ侵攻以来、国内外を問わず、戦争をテーマにした小説やエッセー、手記や日記を読んでいる。そして、きょうから8月――。『あすの盛りの花まちて』も、過去の手記でありながら、現在に通じる戦争の実相を伝える。
手記の書かれた時代背景としては、昭和19(1944)年3月、中学校生徒以上の全員を工場に配属することが決まる。さらに同20年3月、1年間の授業停止が決まり、学徒は軍事生産・防空防衛に動員される(同書から)。
磐城高女では同19年7月、4年1・3・4組が日東紡富久山工場(現郡山市)へ、6組が同郡山工場へ、2・5組が帝国通信工業川崎工場へ動員された。
体力の問題や家庭の事情で学徒動員に参加できなかった生徒は、自宅から平郵便局へ通って作業をした。
「富久山工場」編――。「3年生になってからは、授業を中断しての防空演習、学校内外でのさまざまな勤労奉仕、4年生の7月には、4クラスだけ他のクラスに先んじて、学徒動員として勇躍家を離れたのでした」「年はもいかない乙女達へ深夜勤務を含む三交代勤務体制に驚かされた」
「郡山工場」編――。「作業は飛行服生地の製糸。仕事の配置と内容は、5班(一番小さい方々)が製綿。屑繭を釜で煮、大きなドラムの囲(まわ)りに、多くの針が出ている様な機械を廻って、綿になった物を自分の目分量で決められた重さに千切り、ガラスの台の下の電球の光で、綿の中の塵等の異物を除く作業」などをした。
「川崎工場」編――。「帰郷も出来ずに正月を迎え(昭和20年)、3月10日の東京大空襲は大雪のため外にでて、防空壕に入ることも出来ず、対岸の東京上空の敵機低空の音と、化学工場の爆発音におのゝきながら一夜をおくり、工場よりの帰途、一望出来る橋の上で眺めた三日三晩真赤な空を、相当の被害である事を察しました」
富久山工場へ動員された一人はこう記す。「戦争と云う何の益もない破壊、何の関係もない人々まで次第に巻き込んでゆく人間の愚かさ、怖さ、国家的権力による統制という精神的、物質的な拷問。一度戦争を経験した人は、生涯その暗い影から逃げられないのではないでしょうか」
ウクライナの国民は破壊と死に直面し、ロシアの国民は国家統制のなかで「真実」から目をそらされている。まさにいつの世も変わらない戦争の愚かさ・怖さだ。
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