いわき中央署で先日、若手署員を対象に、ベテラン警察官による震災体験伝承活動が行われた。
いわき民報に記事が載った=写真。「ガスや電気がない中で、さまざまな状態の遺体を一刻も早くきれいにして遺族の元に返すため、必死に被災者と向き合った」
現刑事官の話に触発されたものがある。一つは、石井光太著『遺体―震災、津波の果てに』(新潮社、2011年)。医師や歯科医師らにインタビューをして、岩手県釜石市の遺体安置所をめぐる約3週間の出来事を描いた。
「遺体はどれも濡れていたり、湿っていたりしており、艶を失った髪がべっとりと白い皮膚に貼りついている。/しゃがんで顔をのぞき込んでみると、多くの遺体の口や鼻に黒い泥がつまっていた。目蓋の隙間に砂がこびりついていることもある」(釜石市医師会長)
もう一つは、元いわき市歯科医師会長中里迪彦さんからいただいた、『2011年3月11日~5月5日
いわき市の被災状況と歯科医療活動記録』(2012年)のコピーだ。
中里さんは平成27(2015)年5月、いわき市文化センターで開かれたミニミニリレー講演会でも「東日本大震災、福島第一原発事故に被災したいわきの現実―地震・津波・原発事故・風評被害の中で」と題して話している。拙ブログから内容を振り返る。
――いわきの歯科医師会は震災直後の3月15日から4月3日まで、水道が復旧した市総合保健福祉センターで救急歯科診療を続けた。
警察の要請で身元不明遺体の歯の状況を記録し、他県(富山・岐阜・和歌山・大阪)チームによる避難所での巡回診療にも協力した。
歯科医師会が遺体の歯の調査にかかわったと知ったのは、中里さんと街でバッタリ会ったとき。3・11の話になって、歯科医師会の活動を教えられた。「メディアは報じてなかったですね」「そうなんです」
講演前に中里さんから資料をいただき、後日、自宅を訪れて別の資料もちょうだいした。
「中里レポート」は警察からの要請と数字だけを淡々と記す。「3月18日。平にある市民プールの管理棟に設置された遺体安置所で遺体の身元確認作業に協力。身元不明の遺体29体。歯科医12人が参加した」。遺体確認に関する最初の記述だ。
3月29日以降は、いわき東署からの依頼が続く。巡視船が海上で遺体を収容した、という記述もあった――。
警察・消防・医師・歯科医師だけではない。自衛隊も最前線にいた。原発事故のあと、といっても少し落ち着いてからだが、早朝6時の散歩を再開した。夏井川の堤防へ出るには国道6号を渡らないといけない。信号待ちをしていると、原発事故の収束、大地震・大津波による災害支援、行方不明者捜索などのために、自衛隊の車両が何台も北へ向かっていた。3・11がめぐってきて、そんなことも思い出した。
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