2月下旬に後輩が海藻を持って来た。「マツモ」「おっ、大好き!」。思わず声が弾んだ。マツモは春の到来を告げるハマの食材だ。さっそく湯がいて酢の物にした=写真。翌朝は味噌汁に入っていた。
舌と鼻と胃袋に春を教えるのは、ヤマならばフキノトウ、ハマならばマツモ――と体が覚えている。
いわき地域学會が市から受託して、いわきの伝統郷土食を調べた。編集・校正を担当した。山里育ちなので、フキノトウはすでに味蕾に刷り込まれていた。この伝統食調査を通じて、マツモもまたハマの春の味であることを知った。
世の中が何事もなくめぐっているときには、早春になると当たり前のようにフキノトウを、マツモを口にした。
しかし、平成23(2011)年の東日本大震災と原発事故で一変した。食材がベクレルで規制されるようになった。
この12年、わが生活圏では、「ただの日常」が「非常時下の日常」に変わった。事故を起こしたいわきの北の東京電力福島第一原子力発電所は、今も廃炉に向けた作業が続いている。
何かあったらまた問題の原子炉が暴走しかねない、そんな不安を抱えながら近隣の住民は日々を送っている。
原発震災だけではない。戦争もまた「非常時下の日常」を強いる。朝がきたら起きる、日に三度食事をとる、夜がきたら寝る――単純化すれば、非常時にはこの「食う・寝る」のルーティンが脅かされる。
ロシアによる「ウクライナ戦争」が1年を迎えた。メディアの特集・特番をできるだけ読んだり、見たりするようにしている。
なかでも、普通のウクライナ市民の心情に触れたものは見逃さないようにしている。「あのときと同じだ」。震災と原発事故を合わせ鏡にして、市民の胸底を推し量る。
ミサイル攻撃を受けた市街の建物を見るたびに、大津波に飲まれた沿岸部の瓦礫が思い浮かぶ。
わが家は内陸部にある。津波被害は免れた。家が激しく揺れて本棚が倒れ、食器が棚からなだれ落ちた。家は「大規模半壊」に近い「半壊」の判定を受けた。その家に今も住んでいる。
被災感情はそのとき、どこにいて、何をしていたか、家族は、家はどうなったか、でも異なる。家族を失った沿岸部の人とは、今も不用意な話はできない。
原発事故で家を、土地を追われた人たちもまた、怒りや悲しみを胸の底に沈めながら暮らしている。
ウクライナ戦争でも事情は同じだろう。さらに今度は、黒海をはさんだウクライナの南方、トルコで大地震が発生した。隣国シリアでも大きな被害が出た。
ウクライナ戦争であれ、トルコ・シリアの大地震であれ、統計的な数字だけでは実相は見えてこない。生も死も個別・具体で見ることだ。生き残った市民もまた、「非常時下の日常」を維持しないことには心が持たない。
12年前に震災を経験した身として、戦場への、被災地への想像力をしぼませてはいけない、そんな思いでいる。
0 件のコメント:
コメントを投稿