これは知人から聞いた話。子どもを寿司店に連れて行ったら、「回らない寿司」と驚いた。なかなかの「名言」ではないか。
「回る寿司店」で若者が悪ふざけする動画がSNSに投稿され、拡散されて大きな問題になる、ということが続いた。
ネット時代に限らない。それ以前も、若者は仲間内だけのノリで偽悪的なふるまいに走ることがあった。私も、人からひんしゅくを買うようなことをしなかった、と言い切る自信はない。
が、食事については「ご飯粒は残すな」ときつく親に言われて育った世代だ。食べ物を粗末にすると罰が当たる、という意識が強い。それをいたずらの材料にする発想は、だからちょっと理解できない。
アナログ社会とデジタル社会の違いもあるのだろう。仲間内でのいたずらの交歓と思っていても、デジタル社会では仲間内を通り越して、愚行がたちまち外部へ拡散する。
その結果、一方では経済的な損失が発生し、当人も責めを負わされる。軽い始まりが重い結果を迎える。
昔は、寿司は「高級食」の代名詞のようなものだった。私が独身のころは、大先輩に「回らない寿司店」に連れて行ってもらった。しかし、自分から食べに行ったことはあったかどうか。記憶をたどると、一人で出かけたことはまずない。
同業他社氏と、酔った勢いで「回らない寿司店」に行ったことはある。店の名前も覚えている。が、それはしかし寿司ではなく、アルコールを飲むためだった。
「回る寿司店」が地方にも進出してきたのはいつごろだろう。結婚して、子どもができると、街の喫茶店へ、ということはあったが、「回る寿司店」の記憶はむしろ、孫ができてからの方が鮮明だ。
それ以外は、寿司とは無縁というわけではない。なにかあると、カミサンが「マルトへ行って、寿司を買おう」という。
先日も急に「合格祝い」ということで、近くのマルトまで車を走らせて、「パック入りの寿司」を買った。
「パック入りの寿司」には、「回らない寿司」と違って、ワサビが付いていない。このごろ、そうなった。だから、わさび袋を好きなだけもらい、寿司を食べるときに具の上にちょこんと載せる、というふうに食べ方が変わった。
雰囲気だけは「回らない寿司店」の雰囲気に近づけるため、知り合いの焼いた長い皿などにそろえたのが出てくる=写真。
「回らない寿司店」のような、ほのかな「しゃり」(酢飯)のぬくもりは期待できない。が、寿司ネタはそれなりに新鮮だから、けっこう食が進む。
というわけで、ある日の晩は酒のおかず代わりにパック寿司を食べた。ほんとうは「回らない寿司店」へ、と言いたいところだが、そこはカネとは無縁の人間の習性で、行ったつもりにすぐなれる。年を重ねると、そういうことも可能になる。
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