もう2年半前のことになる。店の壁際に、ウルトラマンのフィギュア(人形)が並んでいた=写真。カミサンが一種のディスプレイとして飾った。
最初、このフィギュアは孫の父親が子どものころに集めたものと思っていた。そうではなかった。孫2人が小さいころに集めたものだという。
ネットの年表によると、ウルトラマンが初めてテレビに登場するのは昭和41(1966)年。高専生だったので、テレビとはほとんど無縁だった。
東京からJターンをしていわき民報社に入ったのが、昭和46(1971)年。旧城跡のアパートに入った。
すると、大家さんの孫(5歳くらいの女の子)が「帰ってきたぞ、帰ってきたぞ、ウルトーラマン」と歌うのが聞こえた。この年の春、「帰ってきたウルトラマン」の放送が始まった。
日曜日の夕方になると、その女の子と平駅(現いわき駅)の跨線橋(平安橋)まで、電車を見に出かけた。ウルトラマンが好きな女の子は成人して結婚した。一度、お母さんと一緒にわが家へ来たことがある。「お兄ちゃん」のことをはっきり覚えていた。
社会人になりたてのころ、街の食堂などでテレビを見る時間が増え、ウルトラマンシリーズが人気だったことは知っていた。
ウルトラマンには兄弟がいっぱいいる。ウルトラセブン、ウルトラマンタロー、ウルトラマンレオ……。私は区別がつかなかったが、子どもたちはレオも、タローも、セブンも一目でわかるほど熱中した。
「帰ってきたウルトラマン」は団次郎(時朗)が主役だった。団は最初、資生堂の男性化粧品「MG5」のモデルとしてメディアに登場した。
ヘアリキッドやアフターシェーブローションを宣伝した。ちょうど大人になりかけた「団塊の世代」などがターゲットだったのではないか。
その彼が3月22日に亡くなった。享年74。彼もまた団塊の一人だった。死亡記事に「帰ってきたウルトラマン」の主役だったとあるのを見て、自分の星に帰っていったのだと、反射的に思った。
団次郎はやがて団時朗になる。前々からテレビに出ていたとはいえ、BSプレミアムで京都の伝統と文化を取り上げたドラマ仕立ての「京都人の密かな愉しみ」を見たときには、役柄を含めて驚き、納得した。
年齢を重ねた貫禄というのか、英国人の文化人類学者で洛志社大学教授のエドワード・ヒースローを軽やかに演じていた。
整髪料、ウルトラマン、そしておよそ半世紀を経たあとのヒースロー先生。ふだんは忘れていても、メディアに登場すると、すぐこちらの記憶がよみがえる。その意味では、彼もまた同じ時代を生きる人間の一人であることに違いはなかった。
肺がんで亡くなったという。肺がんと診断されたのは平成29(2017)年夏で、「京都人の密かな愉しみ」のセカンドシリーズの放送と重なる。闘病しながらの出演だったか。
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